水向地蔵の詳細 (高野山・奥の院)

現在

高野山へお参りするたびに二人の両親の戒名を書いてもらい、両家の先祖の供養をしていた私たちですが、ブログを見てくださった方から、この中には江戸期の名工によって作られたものもあるとの情報をいただきました。あまりになじみ深い水向地蔵でしたので、いつ造られたなんてことは考えもせず、単に水を手向けることが習慣のようになっていたのです。そこで紀伊名所圖會と紀伊續風土記を調べて見たのですが・・・

水向地蔵

これが紀伊名所圖會に描かれている水向所(水向地蔵)です。見えている橋は御廟橋です。紀伊名所圖會は文化9年(1812年)~嘉永4年(1851年)にかけて完成しています。当時はこんなに少なかったようです。さらに紀伊名所圖會より少し早く、天保10年(1839年)に完成した紀伊續風土記には「・・・金銅の地蔵菩薩座像三軆弥勒尊座像一軆不動尊立像一軆地蔵菩薩立像一軆西より東に南向に羅列す。元禄寛永寛政の圖には地蔵尊座像一軆不動尊主(立の誤記?)像一軆のみあり其後建立と見ゆ・・・」とあります。当初は2軆のみだったものが天保年間には六軆(絵図では五軆になっていますが・・・)に増え、現在は十五軆にまで増えているということです。高野山も歴史と共に人々にとって身近な存在になっていったことが覗えます。ところでこの絵図にある仏さまは次の写真のどれに当たるのでしょう。

これがその・・・

その六軆が含まれていると思われる部分を拡大してみました。左端のお地蔵さまと宝冠をかぶっている弥勒菩薩は最近修復されたものです。左から2番目のお地蔵さまの手には穴が開いていたのですが現在では新しい宝珠を持っていらっしゃいます。ですから、これらの仏さまは古いものと考えても良いように思われます。弥勒菩薩の隣の不動菩薩立像が改鋳されていないとするなら、元禄年間には既にあったことになります。そうすると現在まで約300年、その後天保年間までに加わった四軆の弥勒菩薩、地蔵菩薩でも180年近く先祖を供養する人々の真心を受け止めてきたことになります。そう考えてみるともう少し厳粛な気持ちで供養しなければ・・・と思うようになってきました。水掛けではないのですから水をぶっかけるというのではなく、心静かに水を手向けて祈るということは言うまでもありませんが・・・。 この水向地蔵についての情報をお寄せいただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

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