見慣れた杉もよく見れば・・・ (高野山・奥の院)

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  写真は中の橋の付近の見慣れた風景なのですが・・・。私の高野山へのお参りは、中の橋駐車場に車を駐めて、まずは弘法大師御廟にお参りすることから始まります。それが終わると奥の院の参道を下り、中の橋を渡って奥の院入り口の一の橋まで、新しい発見はないかとキョロキョロしながら五輪塔などを見て回るのです。そして、もう一度中の橋まで戻って来て、写真に写っている大きな杉の木と石段の間の小径を通って中の橋駐車場へ向かうのです。でも今回は・・・

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杉の木の側を通りながら、何気なく見上げた杉の木なのですが、なんと立派なこと。奥の院の参道には杉の大木はたくさんあるのですが、この立派な杉には気がつきませんでした。いつもこの杉の側を通っているのに・・・。どうして気がつかなかったのでしょう。一仕事?終えてヤレヤレといった気分で通っていたからでしょうか。ということは、これまで一度も見上げることなく、足元ばかり注意して歩いていたことになります。たまには視点を変えて見ると今までと違った感動的な景色に出会うこともあるんだよと、教えてくれた杉の大木でした。

猛将・島津義弘の墓は? (高野山・奥の院)

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写真は「高麗陣敵味方戦死者供養碑」の左に並んでいる三基の宝筐印塔です。でも、次の図からも判るように、この宝筐印塔は江戸期に完成した紀伊名所圖會の高麗陣敵味方戦死者供養碑の域内には描かれていないのです。高野山観光協会発行の「高野山奥の院の墓碑をたずねて」の地図には朝鮮陣敵味方供養碑の側に薩摩島津家供養塔と日洲佐土原城主松厳院と書かれています。

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島津義弘は秀吉の朝鮮出兵の折、鬼島津と恐れられたほどの猛将。関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、初代薩摩藩主に就いたのは義弘の次男の家久です。敵味方供養碑には義弘の名があるものの、墓所はどうなっているのか長年の懸案になっていました。「墓碑をたずねて」の地図にある薩摩島津家供養塔に義弘のものがあるのかもしれないと探してみたのですが、島津家供養塔自体が見つかりません。佐土原城主松厳院については以前取り上げたのですが・・・。ということで、結論として島津家供養塔は高麗陣敵味方戦死者供養碑の域内に移されたのではないかと考えるようになりました。それがこの3基の宝筐印塔です。以来何度この宝筐印塔とにらめっこしたことやら。なかなか文字が読み取れなかったのですが・・・

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もし義弘の宝筐印塔があるならば、絶対真ん中にある立派なものだろうと思い込み、読解を試みたのですが文字が刻まれていることは判るものの、はっきり判る文字はほとんどありません。ところがこの右側に刻まれている年月日は読み取れるのです。

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写真では見えないのですが、この上にはある「慶長」という文字の下に十六年一月廿一日と刻まれているように見えませんか? もしそうなら、これは島津義弘の兄・島津義久(島津家16代)の命日になるのです。ということは真ん中の立派な宝筐印塔は義弘のものではないことになります。それでは左側の宝筐印塔は?ということで、次の写真をご覧ください。

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右には文禄二年。左には九月八日と刻まれているように思います。真ん中の面の文字は良く判らなかったものの、この年月日は島津義弘の息子・島津久保(ひさやす)の命日ということになるのです。ですから、真ん中と左側は島津義弘の宝筐印塔ではないということになります。それでは、右の宝筐印塔では・・・、ということになるのですが、今回ちょっと見たところ、文字がよく見えなかったように思えたのであっさりパスしてきたのです。これがいつもの私の詰めの甘さなのです。今度は右の宝筐印塔に集中して調べてみることにします。明るさや日の差し具合、乾き具合や湿り気など、様々な要因で文字が見やすくなったり、見えにくくなったりするのでいつになるかは分かりませんが、これからも気長にこの墓所を訪れてみることにします。もし判ればご報告しますね。

修復された豊臣秀頼と淀君の五輪塔 (高野山・奥の院)

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少し前、豊臣秀頼とその母・淀君の五輪塔が修復されたことをニュースで知り、行ってみなければと思っていたのですが・・・。行ってみてびっくり。こんなにきれいになっているとは思ってもいませんでした。修復前の状態は2016年12月に「微妙なバランス」ということで取り上げたのですが、それが次の写真です。

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その後2018年に起こった大阪北部地震で、この五輪塔のことが心配になり、崩れていないかどうか確かめに行き、無事だったのを見て胸をなで下ろしたことでした。その時、地輪の文字を読んでみようと思ったのです。その結果、豊臣秀頼と淀君の五輪塔ではないかという結論に達し、表題に「豊臣秀頼と淀君の墓所?」という記事をあげたのです。「?」マークをつけたのは、文字がとても読みづらく、100%確信が持てなかったからです。今でもその時の驚きと感動ははっきり覚えているほどです。今回修復されてきれいになったものの、これを見てまず浮かんできた言葉は「厚化粧」。次に刻まれていた文字はどうなっているか心配になり確かめてみたのですが、文字は残っているものの、修復前より読みにくくなっているように思いました。今の状態からは秀頼・淀君の五輪塔だと推測するのは私には出来ないように思います。きれいになって良かったと思う反面、これで良かったのかしらと、ちょっと複雑な気持ちで秀頼様と淀君様にバイバイをしてまいりました。

信濃松本藩松平家墓所 (高野山・奥の院)

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前回のややこしいブログ「彦坂元正、彦坂吉成墓所?」で最初の写真の左に2基ほど見えている石碑はこんな形で並んでいます。一番右側には「従五位下故丹州太守巍範勇・・・」と刻まれていることから信州松本藩・四代藩主・松平光和の墓であることが分かります。次は「松平若狭守藤原朝臣光悌遺髪之墓」とあるので五代藩主・松平光悌の墓。その次は「信濃國松本城主従四位下行丹波守藤公髪塔」とあり、右側面に「神龍院殿大光啓雲大居士」とあることから七代藩主・松平光年の墓石。その向こうは「松本従五位下主膳正松平光領公髪・・」とあるようですので、光年の子であり世嗣でもあったものの早世し、藩主の座に就くことがなかった松平光領の墓石。一番向こうは「故松本城主竹翁公髪塚?」とあるようですので、六代藩主・松平光行の墓であるようです。松平(戸田)家は先に2代にわたって松本藩主に就いています。この墓所には再度信州松本に戻り、藩主の座に就いた松平(戸田)家の墓所のようです。松平家は松本藩主に返り咲いた後、9代光則まで、146年間廃藩置県まで続いています。

彦坂元正、彦坂吉成墓所? (高野山・奥の院)

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まずは手前の五輪塔についてです。花立てがある面には・・・

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分かりにくいのですが、分かる部分だけを記しておきます。「〇宕聚林・・ 〇勝院殿花〇〇 夢庵幻身居 明鑑心光大」のように思えるのですが、今ひとつはっきりしません。次は右側面です。

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「俗名彦坂小刑部 命?日寛永十一夭正月 春?日 寛永十五夭十月廿四」とあるように思うのですが・・・。彦坂小刑部なる方を検索してみると、 本名は彦坂元正という方のように思われます。父・光景と共に徳川家康に仕え、検地に功績があった方のようです。関ヶ原の戦いでは小荷駄奉行、その後は東海道の整備に尽力するなど、武力による仕事よりも、裏方のような仕事が得意なような方のようです。場所は薩摩島津家墓所の左奥、越前松岡初代藩主 松平昌勝五輪塔の側になります。彦坂小刑部という文字と没年が寛永十一年正月という二つで彦坂元正ということにしたのですが、あまり自信はありません。

次は1枚目の写真の左にある墓石についてです。写真に見えている面には「彦坂平九郎源吉〇。〇の字はなんと言う字なのか分かりません。この墓石を反対側から見ると

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丸に二つ引き紋が描かれており、龍・・・とあるのですがこれも分かりません。戒名は法弓?院殿隠誉・・・とあるように思います。彦坂平九郎という名をネットで検索してみると、彦坂吉成という方のようですが、詳細は分かりません。いずれにしろ、彦坂・・とあるので、彦坂小刑部の係累に当たる方では亡いかと思っています。ややこしいことですみません。でも、少し手がかりを感じたように思ったので載せることにしました。お詳しい方いらっしゃいましたら、ご教示頂ければうれしいです。

※いつもお世話になっているM.I様から、この件についての情報を頂戴しましたので、載せておきます。
彦坂の墓石について。

寛永十一夭正月正月の下に正月八日とあるので、元正の墓です。

正面右側に
①「〇宕聚林居士」②「〇勝院殿花〇春」とあり、

右側面に
①「俗名彦坂小刑部 命日寛永十一夭正月八」②「 春命日 寛永十五夭十月廿四」
正面左側に
③「夢庵幻身居士」④「明鑑心光大姉?」とあり、
左側面
③「彦坂市兵衛尉源 命日万治二年十月」④「心光命日 慶安三」
とあり、彦坂小刑部元成夫妻と彦坂市兵衛夫妻の4人の墓と思われます。

彦坂市兵衛については存在含め全く不明です。
なお、左側面には③④の命日のほか、建立日であろう「寛文十年六月廿五」と
「施主一〇〇」もあります。

作州津山藩家臣大熊氏墓所 (高野山・奥の院)

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前々回の「木食法印五輪塔」に続いて偶然目にとまった墓石です。結城秀康石廟の手前、左に続く小径を歩いていた時、あれっ?と思った墓石です。なぜ目に留まったかというと、私のふるさと作州津山の文字が目に入ったからです。左の碑には「作州津山少将殿家臣大熊将監 清蓮院殿浄〇榮然? 正徳五乙未年・・・」、右の碑には「作州津山城主松平越後守家中 大乘院殿・・ 寶永五戊子・・」とあります。同じような形の碑で、あまり年も離れていないことから、ご夫婦の墓ではないかと思っています。大熊氏は津山藩の重臣で、年代からすると津山藩初代・松平宣富に仕えた方ではないでしょうか。戒名から受ける感じでは、右の大乘院が夫で左の清蓮院が奥様ではないかと思っています。

ところで真ん中の碑なのですが、「播州赤穂浅野内匠頭殿御家中 樹林院月山性夏大姉追善 元禄三夭六月十五日奥野長太夫為内室」と刻まれているように思います。元禄三年は江戸城松の廊下事件の約十年前。「浅野内匠頭 家臣 奥野」で検索してみると内匠頭の家臣に奥野定良という方がいらっしゃるのです。でも、その方が長太夫と名告ったとは記載されていません。ここからは私の妄想です。この墓石の配置からして作州・大熊家の娘が赤穂・奥野家へ嫁いで夫より先に亡くなった。その後の浅野家の混乱で安らかに祀ってもらえることも出来なくなり、娘の菩提を弔うため、大熊夫妻の真ん中に祀った・・・。という物語はどうでしょう。とまあ、こんな調子でふらふらと奥の院を彷徨っている私です。

何としたこと、こんなところに佐久間将監の五輪塔が・・・(高野山・奥の院)

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この写真は以前織田信長墓所についてのブログを書いた時に使ったものです。この写真の中に二つの懸案事項があったのです。一つは信長五輪塔の右にある五輪塔。その作りが異様であったため、調べていたのですが、いつもお世話になっているM.I様に解決していただきました。詳細は「六姫の五輪塔」をクリックしてご覧ください。もう一つは写真右上の大きな卵塔です。表の文字は判るものの、裏側に回るのが憚られて・・・。なんと言っても信長の五輪塔は超有名スポット。ひっきりなしにたくさんの人が訪れているため、つい目と鼻の先の卵塔の裏側に回ってゴソゴソ調べるのは気が引けていたのです。今回は人出がとても少なかったので、調べてみることにしました。

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盡峯空縁禅定門と力強い文字が刻まれています。問題はこの裏なのですが・・・。左下にある玉垣で囲ってあるのが六姫の五輪塔です。後ろに下がって全体を撮るのがとても難しいところにあるのです。それで不安定な姿勢で見えている部分を何枚かに分けて撮ってみたのですが、分かったことは「佐久間佐吉殿為御菩提・・」という部分だけ。佐久間と言えば以前あげた御廟橋から奥の聖域内にある「春日局・佐久間将監墓所」。このときは佐久間将監の五輪塔は見つけることが出来なかったのです。佐久間佐吉という方は佐久間将監と何か関係あるのかしらと思いながらふと右側の五輪塔の地輪を見てびっくり。こちらにも佐久間の文字が・・・

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為佐久間将監實勝菩提(ササテンボダイ) 為寸松庵山隠宗可居士 寛永十九壬午年九月廿・・・ とあります。こちらには間違いなく佐久間将監とはっきり刻まれています。もしかして、これが春日局とも繋がりがあった茶人の佐久間将監の五輪塔なのでは・・・。ネットで調べてみると、佐久間実勝 別名は真勝、号は山隠宗可または匿藪斎、庵号は寸松庵と出ていたのでほぼ間違いないように思うのですが、没年月日が寛永19年10月22日だそうです。でも、この五輪塔には9月とあるので亡くなる一月前に前に立てられた五輪塔、逆修墓でしょうか。その辺は良く分かりませんが、とりあえず佐久間将監の五輪塔であることは間違いないように思います。ということは、奥の院の御廟橋を渡った聖域内にある春日局・佐久間将監墓所という標柱はどういうことでしょうか。それと、佐久間佐吉という方も同じ佐久間姓であるだけに気にかかります。将監の係累の方だと思われるのですが、今のところ良く分からないでいます。

木食法印五輪塔 (高野山・奥の院)

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尾張徳川家墓所付近を彷徨っていた時「木食」法印・・、「興山」官寺・・と刻まれた小さな五輪塔を見つけました。木食、興山ですと? あの応其上人ゆかりの五輪塔?と思わず足を止めました。応其上人と言えば、私の住んでいるところでは知らない人はまずいないと言うほどの有名人だからです。なにせ、小学校の校歌にも出ているぐらいですから・・・。どうしてこんなところに・・・、応其上人は興山応其上人廟に祀られているはずなのに・・・とはやる心を静めつつ、地輪に刻まれた文字を煮てみました。

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元禄五壬申年 興山官寺第五世 木食法印霊堂 四月九日入寂 と刻まれていました。興山官寺第五世とあるので応其上人その人でないことは分かったのですが、興山官寺という寺はどこにあるのだろうと調べてみると、どうやら紀の川市桃山町にある興山寺のようです。紀伊名所図會には「・・・本尊不動尊。堂内應其上人の木像を安ず。上人自作にして、その容貌生けるが如し。・・・當寺は應其上人の弟子二位覺榮の開基なり。・・・」とあります。応其上人は紀の川から安楽川への用水整備を行うことにより、この地方の農業発展に多大な貢献をしたとか。1590年(天正18年)、その徳を称えるために立てられたのが興山寺のようです。でも、紀の川市の観光案内図に興山寺は出ていないように思います。ということは、応其上人は紀の川市ではあまり知られていないのかも知れません。私の住んでいる地域で有名なのは、応其上人は秀吉の高野攻めから高野山を守ったことに加え水利事業を行ったという二つの功績に対し、この地域での功績は水利事業の一つだけだったからでしょうか。

水向け地蔵の生年月日 (高野山・奥の院)

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今回お参りした時はこんなに雪は積もっていませんでした。というか、雪は全然見当たりませんでした。これは4年前のお正月に撮った奥の院御廟橋手前の水向地蔵です。雪はないものの、平日と言うことなのでしょうか、お参りに来る人はとても少なく、水向地蔵も乾いているほどでした。それで、これ幸いと後ろに回って銘(制作年)を調べてきました。

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これは今回撮ったお不動様です。寛永廿癸未五月廿二日のお生まれです。なんと381歳というご高齢でいらっしゃいます。

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弥勒菩薩様です。最近修復されたので平成30年八月吉祥日とありましたが、寛政・元禄期にはお地蔵様とお不動様の2躰だったのが、天保10年に完成した紀伊続風土記には、この弥勒菩薩が描かれています。ですから185歳以上ということになろうかと思います。

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享保十四己酉年三月廿一日生まれのお地蔵様のようですので、御年295歳ということのようです。

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こちらは寛文六丙午歳八月十五日生まれのようですので、358歳のお地蔵様です。

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享保七壬寅年三月廿一日がお誕生日のお地蔵様です。302歳になられます。このお地蔵様も最近修復されてとてもきれいなお姿になりました。もし修復前の様子はどうだったのか興味がおありでしたら、「水向け地蔵・一躰修復」をクリックしてご覧ください。

こうしてみると、お不動様が一番年上のようです。こんなに長い間お参りの人々の願いを受け止めてくださっていると思うと、水をぶっかけたりするような無作法なことはせず、作法通り、足元に水を手向けて心静かにお祈りしなくては・・・という気持ちになりますよね。

よろしければ「水向け地蔵の詳細」をクリックしてご覧ください。

桑名藩主・松平定綱夫妻の五輪塔 (高野山・奥の院)

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崇源院五輪塔の右手上の一段高いところに徳川家光正室・鷹司孝子五輪塔越後高田藩主・松平光長の正室の五輪塔があります。その右側にある伊勢桑名藩主・松平定綱夫妻の五輪塔です。定綱の父親・定勝は家康の異父弟になります。その事もあってか。下総山川藩を振り出しに下妻藩、掛川藩、淀藩、大垣藩を経て11万3千石で伊勢桑名へ入封します。右側が松平定綱、左側が奥方の曜安院のものです。

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地輪には 慶安四年〇卯年 大〇院殿〇四品〇蓮社定誉一法大居士 十二月二十五日。右側面には勢州桑名之城主 松平越中守定綱公 為成三菩提也、左側面には奉行 仙羽佐次右衛門 と刻まれているように思います。

松平定綱は施政方針を定めた「牧民後半」を書いたり、多くの新田を開発するなど桑名藩の基礎を固めた方です。

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こちらは左側の地輪、水輪の二つだけの五輪塔は定綱の奥方、曜安院の五輪塔です。水輪から上の火輪、風輪、空輪は側に落ちたままになっています。刻まれている文字は 萬治二己亥夭 八月十三日 曜安院殿秋誉月晴理光大信女 為光妣追善 清正院建立。 戒名から見ると、自然を愛した理知的で賢いお方だったように思われます。なお、この五輪塔も奉行仙羽某とありました。施主の清正院については今のところ分かっていません。