ツチグリ

ツチグリ (1)

山道を歩いていると「これ変わっていると思わない?」の声。いつものことですが、指さす方を見ても、どれを指しているのか判らない。やっとそれらしきものを見つけたのですが丸い形をしていて、てっぺんに穴が開いているのでホコリタケじゃあない?近所にもよく生えているよ・・・と言ったものの、花びらのような物が付いているのが気になって・・・

ツチグリ (2)

改めて調べて見るとどうやらツチグリというキノコのようです。ホコリタケに似ているものの花びらのようなもののあるなしで別の種類になるのだとか。それほど珍しいものではないようです。花びらのようなものが湿気によって開いたり巻き込んだりして穴から胞子を放出するそうです。胞子形成前の時期には,内部の袋の肉は白く弾力があり,食用になり、皮ごと薄切りにして油でいためると美味だそうですが、胞子ができると食べられくなるようです。でもキノコについては店で売っているキノコ以外はどうしても食べる勇気がありません。蛇を見るとどれも毒蛇に見えて逃げ出してしまう私なので、キノコについても、どれも毒キノコと思ってしまうのかも知れません。

ハクモクレン

ハクモクレン

今、ハクモクレンの花が満開です。例年ならば霜に当たって折角の花びらが茶色く枯れてしまうのですが、今年は暖冬の所為か霜も降りず、綺麗な状態を保っています。こんなことは初めてのことなのですが、単純に喜んで良いのかどうか複雑な心境です。このモクレンも大きくなりました。昨年は高くなりすぎた大好きなヤマザクラの木をバッサリと剪定したのですが、今年はこのハクモクレンも小さく刈り込もうと思っています。そろそろ自分の歳を考えて・・・。

と、この日は単純に綺麗な花を長く楽しめそうと思っていたのですが・・・。

哀れ・・・

これは翌日の朝の写真です。ご覧のように雲ひとつない晴天。放射冷却で明け方は薄氷が張る程冷え込みました。楽しみにしていたハクモクレンの花もこんな哀れな姿に・・・。花が美しいのは一瞬で、長くは続かないという現実を突きつけられたようでした。人生と同じように・・・。 ちょっと遅くなりましたが3月16日と17日のことです。

蜂蜜の種類って・・・  美作路の旅 後日談3

蜂蜜・・・

一緒に美作路の旅をした友から後日送っていただいた蜂蜜です。常日頃から過分なお気遣いしていいただいており、申し訳なく思っています。ところで、何故こんな蜂蜜を・・・と思われるかも知れませんね。実は友は岡山県鏡野町にある有名な養蜂場のファンなのです。時間があったので工場見学でも出来たらと行ってみたのですが叶いませんでした。そこで工場の前にある可愛らしいお店に入ってみたのです。中にはいろいろな種類の蜂蜜があり、試食をさせてもらいました。写真左から「あかしあ蜂蜜」「そば蜂蜜」「ぼだいじゅ蜂蜜」「ひまわり蜂蜜」「れんげ蜂蜜」です。これ以外にもいろいろあったのですが、初めて聞く「ぼだいじゅ蜂蜜」についてお店の方に聞いてみました。菩提樹林の中で飼っているミツバチが採ってきたからですか?答はこうでした。どの花の蜂蜜かを決めるのは蜂蜜に入っている花粉を調べているのです・・・。成る程そういうことだったのか。皆さん、ご存じでしたか?私はこの歳にして初めて知りました。歳に関係なく、新しい知識を得ることはうれしいものです。今回の友との旅を振り返ってみていろいろ新しい知識を得ることが出来ました。またこんな機会がありますように・・・。   ついでといっては何ですが、2019年6月29日のブログ「菩提樹の花」をご覧ください。

正俊寺 美作路の旅後日談2 (大阪府枚方市長尾)

正俊寺 (1)

美作路の旅の途中、友といろいろ話しをする中で、私が昨年ブログに掲載した高野山奥の院にある「三州久貝家墓所」にも話しが及びました。彼は久貝正俊の菩提寺を知っていると言うのです。今回も彼の寄せてくれた写真等の情報をもとにして書いたものです。 正俊寺については、案内の石碑に刻まれている由緒書き使わせて頂きました。

長尾山正俊寺 初代大坂町奉行を務めた旗本久貝因幡守正俊は交野郡内に知行地を与えられ、荒廃していた長尾村の再開発に着手しましたが、志半ばで病没しました。慶安二年(1649)息子正世は亡父を弔う為、当地に久貝家菩提寺を建立し、同家知行地となった讃良郡中野村(現四條畷市中野)正法寺の釈迦如来座像と石造十三重塔を移しました。守号は門家を創開した父親の名を冠して長尾山正俊寺と命名しました。 (守号・門家という言葉は私にははっきり判りません。守号はお寺の名前、門家はお寺のことでしょうか・・・)

十三重塔

本堂左手にある花崗岩製の十三重塔は、高さ4.3メートルで、嘉暦二年(1326)の紀年銘が刻まれていました。上部相輪の宝珠・請花を失っているものの、鎌倉時代の造立当初の姿をよく留めており、昭和45年に大阪府有形文化財に指定されました。

正俊寺 (2)

境内には山門前に久貝家墓所、住職墓域に細谷善兵衛の墓石があります。細谷は福岡村(長尾村の前身)の再開発に尽力し、久貝家長尾陣屋の代官を務めました。 2000年8月 枚方市教育委員会

私のブログを見て、貴重な情報まで提供してくれる友って本当にありがたいものですね。なにせ、半世紀以上のお付き合いをさせて頂いている親友ですから・・・。

光明寺  (長岡京市粟生) 美作路の旅・後日談 1

光明寺 (1)

友人と法然上人生誕の地・誕生寺を訪ねたのですが、そのとき彼は光明寺の話をしてくれました。私は光明寺のことは知らなかったのですが、法然上人と熊谷次郎直実ゆかりのお寺という事で、後日ご覧のような写真資料を送ってくれました。おかげで法然上人と熊谷次郎直実の関係がよく分かりました。誕生寺からの帰りに通った「念仏橋」を是非ご覧ください。

光明寺 (2)

これが光明寺にある圓光大師(法然上人)の石棺です。ここからは光明寺の案内板の内容を記しておきます。なお案内板の最初に書かれている部分は省略しますが、高野山の「平敦盛・熊谷直実の墓」を参考になさってください。

蓮生法師(熊谷次郎直実)と法然上人
建久4年(1193年)、直実は犯した罪を償うために武士を捨て、東山吉水の法然上人を訪ねて仏門に入ります(法名・法力房蓮生)。建久9年(1198年)、修行を経た蓮生法師は、喧騒の吉水を離れ、静かに念仏を称えられる地を求めて、ここ粟生(あお)の地に寺を建立します。そして、法然上人を招いて落慶法要を行い、上人を開山第一世、自らを第二世とし、上人から「念仏三昧院」の寺号を頂きました。これが光明寺の発祥です。

光明寺 (3)

法然上人は建暦2年(1212年)に亡くなりました。晩年は、奈良や比叡山の古い教団から迫害を受けていたといいます。死後の嘉禄3年(1227年)、比叡山の僧徒が、東山大谷の上人の墓を暴き、遺骸を鴨川に流そうと企てます。この企てを知った弟子達は、秘かに遺骸を太秦の西光寺に移しました。
翌安貞2年(1228年)、上人の石棺が光明を放ち、粟生の地を照らすという不思議な事が起こったため、遺骸をこの地に移し、火葬にして裏山に御廟を立てました。この時の奇瑞にちなみ、念仏三昧院は四条天皇より「光明寺」の寺額を賜り、以後、光明寺と呼ばれるようになりました。

ということのようです。とても信心深い友はもう既に法然上人の眠っている地も訪れていたのですね。そんなことも知らずに誘った美作路の誕生寺、喜んでもらえたかしら・・・。

衆楽園 (岡山県・津山市)

衆楽園 (1)

入口の案内板の内容を転記しておきます。衆楽園は、津山藩主森長継が明暦年間(1655~1658)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園です。当時の面積は23,504坪と現在の3倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清遊の場となっていました。津山藩では防備のうえから城内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので「御対面所」と呼ばれていました。その後森氏にかわって松平氏に引き継がれましたが、明治3年正月、時の藩主松平慶倫が「衆楽園」と命名し公園として一般に公開しました。

衆楽園 (3)

明治4年の廃藩後、多くの建物が取り壊され規模も縮小して一時「偕楽園」また「津山公園」と改称されましたが、幸いにして園地の主要部分は残り、大正14年再び「衆楽園」と改称し現在に至っています。

衆楽園 (2)

この庭園は京都の仙洞御所を模したもので、明暦の創園当時から伝わる建物としては余芳閣が残っています。南北に長い池に大小四つの島を配し周囲の中国山地を借景とした構成は近世池泉回遊式庭園の典型であり、江戸時代初期の大名庭園のおもかげをよく残しています。                                                                                                                                           

衆楽園は国指定名勝になっており津山市民の誇りとも言える庭園です。津山城にいらっしゃったときは、この衆楽園まで足を運ばれたら如何でしょう。お城から近いことですし・・・。きっとゆったりした気分になれますよ。

津山城 あれこれ 森忠政像と愛の奇石 (岡山県津山市)

森忠政

津山城を築いた森忠政の像です。森忠政は本能寺の変で織田信長と共に亡くなった森蘭丸の弟に当たります。信長の寵愛を受けた蘭丸の弟ですから、きっと美男子・・・と思っていたのですが、こんな方だったのですね。私の勝手な思い込みでした。高野山にも森家の墓所があるのですが、よろしければ「岡山津山森家墓所」をご覧ください。

ハート型の石

これは石垣にあるハート型の石です。名付けて「愛の奇石」だとか。こういった愛のスポット?は全国あちこちにあるのですが、津山城にもあったんですね。是非この前で永遠の愛を誓いに来てみんちゃい。大きな石ですので御利益抜群かも・・・。

津山城 (岡山県津山市)

津山城

津山市のシンボル津山城です。明治の廃城令で建物は取り壊されましたが2005年、写真の備中櫓が復元されました。それまでは石垣だけが残る城跡でしたが建物がひとつあるだけで具体的に往時の様子を偲ぶことが出来るようになったように思います。お城は鶴山に築かれた平山城で、石垣が魅力的な美しいお城です。また日本屈指の77棟もの櫓を構えていた壮大な名城と言えます。丁度季節的に木々が茂っているときでなかったので石垣の魅力を堪能しました。そうそう、津山城は日本100名城、桜名所百選にもなっています。

備中櫓

備中櫓です。美作の国でありながら備中櫓とは少し不自然な感じがしますが、初代城主・森忠政の娘が鳥取城主・池田備中守長幸に嫁いでいた関係でこの名がついたそうです。津山城(鶴山公園)は桜の名所としても有名です。桜のシーズンになると多くの人で賑わいます。桜の後は、この備中櫓の側にある藤棚も、とても綺麗になるのでしょうね。私が子供のころは津山城のことを、「お城山」といっていたように思います。桜以外はこれといって何もない感じの鶴山公園でしたが、運動会なども開かれており、私も出場して賞品にノートをもらった記憶があります。祖母に連れられてお弁当を持ってよく来たものです。当時に比べ、まさに隔世の感がします。

津山駅方面

そのお城山から見た津山駅方面の風景です。中央左の吉井川にかかる今津屋橋を渡り、右に行ったところが津山駅です。蒸気機関車がまだ走っていたころは大変賑わっていました。汽車が駅に停まると駅弁売りの人がお弁当を売っていましたし、汽車が出るときは「蛍の光」のメロディーも流れていたように思います。今はご多分に漏れず高速バスに席巻されて一ローカル駅になってしまいました。津山駅は姫新線、津山線、因美線と3つの線が集中する要とも言える駅なんですがね・・・。

ナズナ畑 (五條市・上野公園前)

ナズナ畑

以前、橋本市真土の「菜の花畑 万葉の里」をご紹介したのですが、今年は暖冬だしもう咲いているのではと様子を見に行きました。国道を走りながら見た感じでは、まだ満開と言うにはほど遠い感じでしたがそれなりに花開き、春の訪れを告げているようでした。そしてそのまま車から降りることなく上野公園の前へ・・・。確かここにも菜の花畑があったはずと行って見たのですが、菜の花畑ではなく一面ナズナ畑になっていました。レンゲやクローバーなどはよく見かけたものですが、ナズナ畑は初めてです。このナズナって種を蒔いて育てたのかしら、レンゲやクローバーはすき込んで緑肥にすると聞いたことがあるけど、このナズナもそういう目的で植えられているのかなと話が盛り上がりました。菜の花畑に比べると華やかさに欠けますが、それなりに面白い風景のように思います。

ナズナ

子供のころペンペン草と言って、ハート型の種の部分を持って茎の筋が残るように引き下ろし、茎を指で挟んでクルクルと回すとペンペンと音がするのを聞いて遊んだものです。むかしは何でもオモチャになっていたよねと伴侶もしみじみ。ところで、ペンペン草というのはそういった音がするからではなく、ペンペンと鳴る三味線をはじく撥の形に種が似ているからなんだそうです。その昔、伴侶に教えてもらいました。ペンペン草(ナズナ)は春の七草として珍重されるものの、これが茂ると言うのは家などが荒れた様子を言うのですよね。ヤエムグラにしても茎を服にひっつけて遊ぶという子供にとっては身近な植物なのですが、これも家が荒れていることを表す植物の一つです。どちらもどこにでも生えていて繁殖力が強く、厄介者だったからでしょうか。

ペンペン・・・

昔々遊んだペンペンと鳴るペンペン草?を作ってみました。種の部分を持って茎の筋が残るように引き下ろしたのが、下のふたつです。茎の右端をつまみ、耳の側ででんでん太鼓を鳴らす要領でクルクル回します。懐かしい音が聞こえてきました。こんなことが楽しかったのかしらと思えるような音でした。一番上は細工をしていないそのままのペンペン草です。試しに回してみたのですが、やはり音はしませんでした。あたりまえと言えばあたりまえのことですが・・・。

誕生寺境内あれこれ 3 公孫樹と念仏橋 (岡山県・久米南町)

公孫樹

境内にある大きな公孫樹です。気根も垂れている堂々とした大樹です。案内板には「公孫樹 久安三年(1147)十五歳の勢至丸(法然上人)は、比叡山に旅立たれる際、高円菩提寺より杖とされた銀杏の枝をこの地にさされたところ生着繁茂し、根が上に伸び「逆木の公孫樹(さかきのいちょう)ともいわれる」とあります。いろいろなところでイチョウの大木を見るのですが、気根が垂れ下がっているような大樹は、この木と同じように、どれも上の方が大きい不安定な形をしているのです。何か理由があるのでしょうか。

念仏橋

誕生寺からの帰りにお寺の方から教えていただいた念仏橋を渡りました。ここは境内とは言えないと思いますがご紹介しておきます。狭い道でしたので車の外へ出ることなく窓から撮った写真です。左にある案内板には「念仏橋の由来 法然上人のお弟子となった源氏の荒武者熊谷次郎直実は建久四年(1193年)法然上人御自作の御木像(現誕生寺の御本尊)を背負って熊谷入道自らの弟子数人を連れて、はるばる上人の御誕生地である、この地にたどり着き、上人のかつての館を目前にして、到着の喜びとその感激に号泣して、この橋の上で天地も裂けんばかりに念仏を唱えつづけたと伝えられる橋で、それ以後この橋を熊谷入道の念仏橋という」 とありました。とても小さな橋でしたが歴史が感じられます。