お夏清十郎の墓(貝塚市・水間寺)

お夏清十郎

水間寺境内の愛染堂にあるお夏清十郎の墓です。私のブログでお初徳兵衛お染久松に続いて三つ目の悲恋物で、宿屋の娘お夏と手代の清十郎の物語です。江戸時代には自由な結婚が認められず、ふたりの愛を貫いたという話が大衆の心をとらえ、絶賛されたのでしょう。こういった結婚観にも時代の変遷を感じますね。今の若い世代では、理解しがたい話かも知れません。ところで、お墓の前の花立て、左に田中絹代の名前が見えます。この方はかつての大女優だと言うことは知っていたのですが、右にある林長二郎って誰だったっけ・・・と考えていると、隣から伴侶が「長谷川一夫の昔の名前だよ」と教えてくれました。なぜか、こういったことはよく知っているのが不思議です。1936年に作られた映画で共演したそうです。ところでこの地に伝わるお夏清十郎は、お夏が愛染明王に祈願し、恋が成就するといった物語なのだそうです。こちらは泉州バージョンで、悲恋物は播州バージョンということになります。映画はもちろん泉州バージョンだったのでしょうね。出演されたお二人の花立てがこのお墓にあるのですから。

水間寺(貝塚市・水閒)

水間寺

水間寺の思い出といえば、私が小学生のとき遠足に来たこと、作家の故・今東光さんが貫首の座についておられたこと、3年前に亡くなった義母を連れて気晴らしによく散歩に来たことなどです。中でも今東光さんが貫首になられたことを知って、作家としての顔以外に僧侶としての顔もあったのかとびっくりしたのは、中学生の時だったか、高校生の時だったか・・・。実は偉い人だったんだと、人は見かけによらないものと言うのはこんなことかなと思ったものです。水間寺は手入れの行き届いた端正で風格のある訪ねて気持ちの良いお寺です。

本堂

堂々たる本堂です。744年に聖武天皇の勅命により、行基菩薩が水間寺を創建されたそうですが、これだけのお寺を今日まで維持するのは大変なことだと思います。お寺の方々や地域の人々のお寺を守ろうという強い気概と誇りが感じられます。

降臨の滝

水間寺建立のきっかけとなった降臨の瀧です。本堂の右手奥にあります。昔ならいざ知らず、今でもこんな清流が・・・と思えるほどです。以下、瀧の側にある案内板の内容を記しておきます。その中にある、「この地で一番のパワースポットです」という言葉も頷けるような雰囲気が漂っていました。

降臨の瀧-聖観世音出現の瀧
奈良時代中頃、行基菩薩が、聖武天皇の勅命で仏様を求めて水閒の地に来たとき、十六人の童子が現れて、行基菩薩をこの谷間に導かれました。そのとき白髪の仙人が現れ、一体の仏様を行基菩薩に手渡し、己は龍となって昇天したといういわれがあります。仏様は一寸八分の聖観世音菩薩で、天皇に捧げたところ病は全快され、天皇より現地にお祀りするようにとの勅命により、水間寺が建立されました。現在まで水間寺のご本尊として祀られ、厄除け観音として信仰されています。この地で一番の「パワースポット」です。

姫路城 その2

天守閣からの眺め1

姫路城・大天守からのJR姫路駅方面の眺望です。屋根瓦の白い漆喰が印象的です。修復完成当時に比べると少しはくすんでいるのかも知れませんが・・・。

天守閣からの眺め2

大天守から見た西の丸方面です。写真左の真ん中あたりにあるのは百間廊下といわれている西の丸櫓群です。ところで、城主はどのような気持ちで天守閣から城下を見渡していたのでしょう。どこのお城の天守閣に登ってもそんなことを考えてしまいます。皆さんはどうですか?実際に戦の舞台になったお城、ならずに済んだお城とでは見る目も違って来るような気がします。そういったお城の歴史に思いを馳せながらの散策はとても魅力的です。ただし、あまり人出が多すぎると、それどころではなくなると思いますが・・・。百間廊下の右端の櫓は化粧櫓とよばれ、千姫ゆかりの櫓ということだそうです。その部屋には千姫が優雅に百人一首で遊んでいる人形がありました。高野山・奥の院には、その千姫(天樹院)のお墓とお母さんの崇源院の墓が隣り合って建っています。2015年10月20日のブログ「千姫供養塔」をご覧ください。

好古園からの月

姫路城西御屋敷跡庭園の好古園で、梅花展の梅の古木やゆったり池を泳ぐ大きな鯉を見ていると心が和みます。、ふと見上げると青空にお月様が浮かんでいました。穏やかな冬の一日、ゆっくり散策できたのは本当にラッキーなことでした。これで新しい姫路城?の見学という一つ宿題を済ますことができました。

姫路城 その1

姫路城1

昨年、大天守の保存修理が成った姫路城。真っ白なお城を見られるのもそれほど長い間ではないという話を聞き、一度は見ておきたいと思っていました。寒い今頃なら人出も少なくゆっくり見られるだろうと思い、できるなら良い天気の日にと、昨日出かけたのですが、見事にもくろみが当たり、ご覧のように雲一つない晴天。真っ青な空に映える白い天守閣。まるで絵に描いたような美しい姫路城を楽しんできました。

姫路城2

最初の門(菱の門)をくぐり、天守閣を目指して石段を登っていきます。矢狭間・鉄砲狭間が開けられている白壁に沿って進んで行くと、だんだん近づいてくる大天守核の美しさに、ゆっくり楽しみながらお城の雰囲気を楽しもうという当初の気持ちも忘れてしまい、歩みも早くなってきます。

姫路城3

大天守も近づいてきました。青空の効果もあって白鷺城という名前が本当にぴったりします。この日は気温は低いものの、風もなく、早春を思わせるような日差し、そのうえ人出も少ないという、人出が苦手な私にとって申し分のない絶好の姫路城見学ができました。

巨大なサボテンを探してみてください(九度山町・・・・)

サボテン

何と大きなサボテン・・・と車で通る度に見ていたのですが、なかなか写真に撮ることは出来ませんでした。今回、九度山の町を歩いて回ったため、やっと撮ることが出来ました。サボテンって砂漠(暑い地方)の植物というイメージがあるので、夏は暑いものの冬になると相当寒くなるこんなところで、よく枯れずに生きているものだと感心していたのです。さてこの元気なサボテンはどこにあるでしょう?実際にご覧になると、その大きさにびっくりなさることでしょう。ちょっと探してみてください。と、ここまで書いていて思い出しました。追記:この大きなサボテンの花を見ることが出来ました。2020年9月12日のブログ「サボテンの花」をご覧ください。

小さいサボテン

我が家にもサボテンがあったことを・・・。鉢植えですがだんだん増えてきて、今や盛り上がるようになっています。一つ一つの大きさは、大きいもので直径約2cmほど。水気を控えるため、雨のかからない軒下に置いてあるのですが、特に手入れをすることもなく年がら年中、同じ位置に鎮座しております。冬には気温が氷点下に下がることも珍しくない場所ですが、元気なものです。その上花も付けてくれるのですよ。ということは、種類にもよると思いますが、サボテンって結構寒さに強く過酷な環境に耐えることの出来る植物なのですね。暖かくなって花を付けたら、ご覧に入れようと思っています。

またまたここにも千度石(九度山町・九度山)

大石順教尼の記念館

これは大石順教尼の記念館です。ちょうど昼休みの時間に当たっていたため見学はあきらめて、向かいにある遍照寺に行ってみました。遍照寺は当初弁財天をお祀りした槙尾明神社の別当寺として建立されたが、その後この地に移築されたそうです。その遍照寺の境内に・・・

千度石

またまたありました。千度石が・・・。一つ目は学文路天満宮、二つ目は真田庵と、これで三つ目です。このあたりでは千度石はそれほど珍しいものではないのでしょうか。 左 槇尾道という道しるべは弘法大師が厚く信仰したという、槙尾山の弁財天と関係があるのでしょうが、道しるべまであるということは槙尾山詣が定着していたということなのでしょうか。西国33所巡りと関係があるなら3番札所の粉河寺から4番札所の槙尾山への道しるべになるかも知れませんが、それにしてはちょっと不自然な気がします。槙尾山への道しるべといえば、橋本市の歴史資料館「あさもよし館」の駐車場にも小さい自然石のものがあったように思います。そのときは西国33所巡りの道しるべだろうと思っていたのですが・・・。

対面石(九度山町・九度山)

対面石

弘法大師は槙尾山の弁財天を厚く信仰なさっており、毎月9度槙尾山にお参りに行っておられたとか。ところが、あるとき紀ノ川が増水して槙尾山へ行けずにいたとき弁財天が姿を現し、この地に遷して(移して)お参りすれば良いと告げられたそうです。その弁財天と弘法大師が対面した場所にあるのがこの対面石だそうです。また、明治期以降では弘法大師とお母様と対面されたところとも言い伝えられているそうです。月に九度もお母様に会いに高野山から下りてきたり(九度山の名のいわれ)、さらに九度も槙尾山までお参りに行ったりと、弘法大師も忙しかったことでしょう。合計すると、ひと月に九度と九度、計18回も高野山から降りてきていたのですから、超人と言っても良いですね。ということで、この件に付き2011年8月20日のブログ「慈尊院・九度山町」をご覧いただければ幸いです。

赤備えバス(大河ドラマ・真田丸バージョン)

赤備えバス

南海高野線・九度山駅と道の駅・柿の郷くどやま間を走る「赤備えバス」です。土曜日と日曜日、祝祭日のみの運行です。右に立っているバス停の標識も赤備えという念の入れよう。高野線の「赤備え列車」と共に大河ドラマ真田丸で九度山の地の振興を願う地元の熱い思いがひしひしと伝わってくるようです。幸いなことに大河ドラマ・真田丸の人気は今のところ上々だとか。これをきっかけに多くの方々が九度山に足を運ばれますように・・・。

真田の抜け穴・真田古墳(九度山町・九度山)

真田の抜け穴

「真田の抜け穴」と言われていますが、実は古墳の石室なのです。もとは円墳だったのですが、墳丘部は削り取られて石室部が見えるようになっているそうです。確か大阪にも同じような真田の抜け穴というのがあったように思います。大阪の抜け穴はともかく、九度山の抜け穴は大阪城までとはいえないまでも、少なくとも大阪へ向けて幸村が脱出できるように掘られたものと思われていたのでしょう。幸村が神出鬼没の勇将・知将であったことから、このような抜け穴伝説があちこちに出来たのだと思います。この真田の抜け穴について、伝説では九度山と大阪がつながっていたということですが、相当スケールの大きな伝説ですね。

真田庵(九度山町・九度山)

真田庵

この建物は真田昌幸・幸村父子の住居跡に建てられた九度山町のシンボルとも言える真田庵(善名称院)です。よく見かけるお寺とは違った構えが印象的です。境内には真田昌幸の墓や真田宝物資料館などがあります。春、牡丹の季節になると、よく手入れされた見事な花が出迎えてくれることと思います。ゴールデンウイークには真田祭りも催され、多くの人々で賑わいますので、ぜひお越しください。

県指定文化財 真田屋敷跡 昭和51年3月11日指定
戦国の武将 真田昌幸・幸村父子は慶長5年(1600)関ヶ原の戦で西軍に味方して敗れ、高野山に配流の身となったが、後、九度山のこの地で閑居(閉居?)生活をした。
昌幸は、慶長16年(1611)再起を願いながらこの地で65歳の生涯をとじた。幸村は、慶長19年(1614)子、大助ら一族と共に、九度山のこの地を出て立ち大阪城に入城、大坂冬の陣、夏の陣で奮戦、元和元年(1615)茶臼山付近で壮烈な最期をとげた。その後、江戸中期の寛保元年(1741)大安上人によって善名称院(真田庵)が創建され現在に至っている。 (境内案内板より)

2014年10月20日のブログ(真田幸村終焉の地・安居天満宮)、よろしければご覧ください。