八雲立つ出雲の至宝 (橿原考古学研究所附属博物館)

八雲立つ (800x534)

「出雲の至宝」が展示されているというので出かけてきました。久しぶりの橿考博です。どのような至宝が展示されているのかと、入館前からちょっとばかり興奮気味。というのも、ここ何年間かは「出雲」と言うだけで「うん?」と反応するようになっているのです。ということはさておき、中に入ってみると・・・・、あるわあるわ、至宝ががどっさり。一部を除いてカメラOKと言うことを良いことに、たくさん撮ってきたのですが、ガラス越しですのでピンボケも多く、ちょっと残念なことに・・・。ちゃんと手動でピントを合わせればよかったと思っても、時既に遅く、後の祭り。いつものことですが・・・。ということで、至宝中の至宝の中で、ちょっとはましに撮れていたものをご紹介します。

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まずは銅鐸。加茂岩倉遺跡出土の袈裟襷文銅鐸。なーんだ、銅鐸か・・・と言うことなかれ。恐れ多くもこの銅鐸は、国宝にあらせられまするぞ。国宝と言うからには至宝中の至宝に違いないと思います。

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これも袈裟襷文銅鐸。こちらも国宝にあらせられます。

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こちらは荒神谷遺跡出土の銅矛。こちらも国宝だそうです。

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こちらも国宝。国宝ばっかり・・・。

鎧と鉄剣・鉄刀 (800x534)

これは、横矧板鋲留短甲と鉄刀・鉄剣などです。短甲は戦の時、体を保護するもの。「体がこの形にぴったっと合う人しか着用できなかったんだろうね。ちょっと大きい人だとサイズが合わなくて、苦しい!なんてことになりそう」「昔の人って、ぎゅっと腰が締まって格好のいい体型だったんだね~」「横向きにおかれている鉄刀と鉄剣って同じじゃないの?」急いでスマホで調べてみて「鉄刀は片刃、鉄剣は両刃だって・・・」「ふーん、知らなかった・・・」二人の会話です。ちょっと恥ずかしいような・・・。これは国宝かどうか判りません。お喋りしていたもので・・・。

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尻尾の形が可愛らしい馬の埴輪です。これは重文ですので至宝に入ると思います。馬の埴輪って、みんな尻尾がこんな形をしていたような気がするのですがどうしてでしょう。昔は尻尾の毛は短く切って、まとめていたのかしら・・・。それとも短く編んでいるのかしら・・・。 ところで、この馬くん、ちょっと愁いを帯びた表情に見えませんか?

馬の埴輪 (800x533)

こうして見ると、戦場を颯爽と駆け巡り、活躍する馬のようには、どうしても思えません。愁いに満ちた馬の埴輪・・・。もしかして、戦よりも平和を愛する馬だったのかも知れません。心惹かれる埴輪でした。ちなみに、この埴輪も重文でした。

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こちらも重文の鹿の埴輪です。「見返りの鹿」という名前までついている立派な埴輪です。この鹿、どこを見ているのでしょう・・・。遠い故郷・出雲の空を眺めているのでしょうか。故郷を懐かしむ思いが溢れているようで、見ていると、ちょっと胸がキュンとなるような・・・。 まだまだご紹介したいのですが、あまり良い写真がなかったので、「出雲の至宝」はここまでにしたいと思います。尻切れトンボみたいでごめんなさい。次回は常設展のブログになります。

臼茸(ウスタケ)  (高野山・奥の院)

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ふと足元を見ると、きれいな薄いオレンジ色をしたラッパのようなものが並んで顔を出していました。初めて見たのですが、直感的に、キノコに違いないと思いました。取り立てて言うまでもなく、誰でもそう思いますよね。形も面白いし、色もきれい、ということで撮ったものです。調べてみると、「ウスタケ」というキノコに似ているような・・・。でも、ウスタケは夏から秋にかけて針葉純林に生えてくるキノコだとか。今は初夏ですので、季節的にはちょっと違っているような気がせぬでもないのですが、それ以外は合っているようです。それで表題もウスタケにしたのですが、もし間違っていたら、ごめんなさいです。ちょっとぐらい季節が違っていても、何と言っても、ここはお大師さまのいらっしゃる霊山。いろんなことが合ってもいいんじゃない?なんて、都合良く考えている私です。そうそう、言い忘れましたが、もしこれがウスタケなら、食べられるとも毒があるとも言われているようです。見つけてもよほど自信がない限り、食べない方がよろしいかと・・・。君子危うきに近寄らずですものね。以前、ベニナギナタダケと覚しきキノコを見つけたのですが、奥の院での彷徨も墓石に限らず、いろいろなものが発見できて、楽しいものです。

今回で2000回目の投稿になります。ブログを始めてから12年と3ヶ月の歳月が過ぎました。その間、嬉しいこと、悲しいこともありましたが、思ってもいなかったような辛いことにも遭遇しました。そんな中、何とかブログを綴ってこられたのは、ひとえにご覧いただいている皆さまのおかげ。本当にありがたく、心より御礼申し上げます。まさに稚拙という言葉がぴったりのブログ「クワウグワ記」ですが、これからも頑張って続けていこうと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

ヤレヤレ気の揉めることよ・・・ 上総入道蓮阿碑 (高野山・奥の院)

やはり気になる (800x533)

何回にもわたって「この碑と禅尼上智碑との関係は・・・」という表題で載せてきたのですが、調査をお願いしている大学の先生はなかなか調べに来てくれず、やきもきしています。今回も、もしなくなっていたらと心配なので、自然と足がこの碑に向かってしまいます。こんな様子を見ると、まだこの碑に気がついていないようです。無事にあることが確認できて安心したのですが、それにしても落ち着かないことこの上なし。先生、早く何とかしてくださいよ。変なものを見つけたばっかりに、ストレスがたまって仕方がありません。一日でも早くストレスから解放されるには、新聞社にでも連絡すれば手っ取り早いかも・・・と思う昨今です。再び「行方不明」ということにでもなれば大変ですものね。同じ見つけるなら、ちょっとやそっとでは持って行けないような大きなものを見つけたら良かった・・・。 注:「禅尼上智碑」は上智さんを蓮阿さんが祀ったもの。こちらは上総入道蓮阿さんを上智さんが祀ったもの。ですから、今回は表題を「上総入道蓮阿碑」にしてみました。

富江領主 旗本・五嶋家墓所? (高野山・奥の院)

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これは24町石の少し手前左側にある、堀尾吉晴墓所から参道を隔てた向かい側、参道沿いにある墓所です。この様子からすると、参道沿いとは言うものの、あまり注目されていないような・・・。墓石に刻まれている文字ははっきりしているのですが、ほとんどが命日、戒名、建てた方の名前だけ。しかも、その名が官位止まり。ですから、私にはどなたかが祀られているのか特定するのがとても難しいのです。命日は明和・享保・安永・寛政・天保など、戒名の院号だけを記してみると、大乗院・瑞雲寺殿・秋頭院・雄安院・単傳院・瑞鳳院などです。建てた方は、五嶋修理。五嶋兵部などですが、みな五嶋という姓がついているので、五嶋家の墓所であることは間違いないと思います。以前取り上げた「肥前福江藩五嶋家墓所」の五嶋氏に繋がる家系ではないかと思うのですが・・・。寛文2年(1662年)に藩主の後見役だった五嶋盛清が、その任を終えるに当たり、富江3000石を分知してもらい旗本になったようです。ですから、今のところ、この墓所はその系統の方々の墓所ではないかと思っています。この墓所、もう少し詳しく調べてみたい気がしています。またそのうち何か判りましたら、ご報告します。なお、この墓所についてご存じの方、いらっしゃいましたらご教示いただければ嬉しいです。

早速いつもお世話になっているM.I様から連絡を頂戴しました。

五嶋家 盛清系( )は没年。 民部盛清兵部盛朗(享保11720修理盛尚(明和532右膳盛峰(安永246兵部盛恭(寛政元・82右膳運龍(没年不明)

とのことです。次回のこの墓所を調べるとき、とても参考になりそうです。ありがとうございました。

今年もモジズリの花が咲き始めました

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例年よりも少し早いように思うのですが、モジズリの花が咲き始めました。いつもなら、以前あげたブログ「捩花(モジズリ)」のような状態の中で咲いているのですが、今回は来客が二組も入ったため、ちょっとばかり綺麗な芝生の中での開花になりました。このモジズリ達、どういう訳か一度は絶滅しかけたのですが、芝生より大切に見守り、育てた甲斐あって、最盛期の約3分の1ほどに回復しています。この花を芝生の敵のように思っている方もいらっしゃるようですが、可愛らしいので、なかなかそこまで割り切って芝生優先にはできないでいるのです。本末転倒、どっちつかずで優柔不断そのものと言えるのかも知れません。花が咲き終わった後に大変な作業が待っているというのに・・・。

この板碑は・・・ (高野山・奥の院)

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いうものように奥の院を彷徨っているとき見かけた板碑です。三基が一体になっている板碑って珍しいと思ったのですが、よく見ると更に珍しいような・・・。真ん中に上人様、右に男性、左に女性という配列です。男性と女性は夫婦であれば夫婦板碑?になるのでしょうか。でも間には上人様がいらっしゃいます。三尊形式の板碑?まさか・・・。この中で一番早く亡くなっているのが右側の男性、次が真ん中の上人様、左の女性は一番後で亡くなっています。そこで考えた私の物語を書いておきますね。夫を亡くした妻の悲しみは、それはそれは大変なものでした。上人様、夫は極楽へ行くことが出来るでしょうか。大丈夫、きっと極楽往生間違いなしですよ。本当ですか、私は心配で心配で・・・。よろしい、そこまで心配なさるのなら、私があなた方の先達になって、極楽浄土までお連れすることにしましょう。そんなこと、出来るのですが?まだ心配なら、あなた方の真ん中に私を入れた板碑を作りなさい。そうすることで必ず極楽へお連れしましょうほどに・・・。ということで、一番後に残った奥様は、上人様に言われたとおりの板碑を作って、私たちを弔い祀ってくださいと言い残して亡くなりました。それで作られたのがこの板碑。あの世でも夫婦一緒に仲良く過ごしたいという奥様の強い願いが伝わってくるようです。いい話だと思いませんか? もしかして私の完全な妄想かも知れませんが・・・。でも、縁あって一緒になった夫婦、すべからく斯くありたいものですね。

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ところで、この板碑、上から見ると、とても厚い石で出来ているのです。ちょっとやそっとでは壊れないような頑丈な板碑のように思います。これも奥様の強い願望を具現化したもののように私には思えたことでした。 ながながと、私の妄想に付き合って頂き、ありがとうございました。たまにはこんなお話も良いかと思いまして・・・。

日向延岡藩・有馬家墓所 (高野山・奥の院)

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21町石を過ぎて左手にある授籌地蔵(數取地蔵)の裏側辺り、少し高台にある日向延岡藩・有馬家墓所です。写真右後の一段高いところに見えてるのが信州諏訪家墓所ですので、すぐに分かると思います。五輪塔は全部で五基あるのですが、お分かりでしょうか。手前(右)から4基めまでは、良く分かるのですが、その向こうに木の陰になっている五輪塔がもう一基あるのです。いずれも立派な五輪塔なのですが、どうしたことか文字がとても読みづらいのです。虫達の集中攻撃に耐え、必死に読み取った結果は次のとおりです。まず、一番向こう側の見えにくい五輪塔ですが、施主有馬左衛門佐・・・ 〇林院・・・ 寛文六年九月とだけしか読み取れませんでした。その隣の五輪塔には日向国臼杵郡延岡城主有馬左衛門佐康純 栄壽院殿長誉秋?岳大信尼菩提 命日慶安二年己丑二月・・・とあるように思います。この方は延岡藩初代藩主・有馬清純の奥様で2代藩主・康純の母に当たる方です。これはほぼ間違いないと思います。その次にある、一番立派な感じの五輪塔ですが・・・

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生国肥前高来郡火枝?・・・ ・・・城主前左衛門佐・・・追善也 松園or國?院殿光山栄如大居士 ・・・成菩提 施主有馬左衛門佐康純 正保・・・四月二or五日 読めそうで読みにくかったのですが・・・。もし間違っていたら、ごめんなさいです。この五輪塔については一寸保留して置いておいて・・・。この手前の五輪塔について、これも康純が建てたもので、戒名が妙禅院殿覚園or国?日厳大・・・ 命日正保二年十月?日。命日が少し違うように思うのですが、戒名がほぼ合っているので、康純の妻の五輪塔だと思います。一番手前の五輪塔は命日明暦二年 崇福院殿・・・愚居士菩提 六月廿七日とあるようですが、どなたのものか分かりません。五基の内、少なくとも四基が康純の建てたもので、彼の母と妻のものがあることは分かりました。ところで、保留してある五輪塔は彼の父・直純のものであれば良いのですが、戒名が全然合いません。命日は七回忌に建てたと考えればそれなりにつじつまが合うのですが・・・。結局、今のところ分かったのは、有馬康純の母と妻の二基だけということになります。読み間違いもあると思われますので、また機会があれば、行って、地輪と睨めっこをしようと思っています。何故か今ここは異様に虫の攻撃が激しいのです。虫たちがいなくなる頃を見計らって・・・。  追記:いつも適切なアドバイスを頂いているM.I様から連絡を頂きました。保留してあった五輪塔は、やはり康純の父・直純のものだそうです。彼の戒名は、後に「光山宗和松園院」となったようで、私が「栄如」と読んだ部分は「光和」の読み間違いであろうと思われます。また確かめに行ってみようと思います。M.I様ありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

旗本・池田長頼五輪塔? (高野山・奥の院)

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29町石の手前、右側にある鳥居のある豊後岡・中川家墓所の向かい側、道を隔てた高台にある五輪塔です。もしかして旗本・池田長頼の五輪塔ではないかと思っているのですが・・・。

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地輪には、慶安二己丑年 天傁英蓮大禅定門・・・覚霊 正月十二日 池田内〇頭長忠と刻まれているように思います。ここで名前の判っているのは池田長忠のみ。ネットのお世話になり検索してみると、長忠は旗本・池田長頼の息子のようです。ですから、この五輪塔は池田長頼のものではないかと思うのです。長頼は鳥取藩初代藩主・池田長吉の4男で徳川秀忠に仕える幕臣でした。備中松山藩主になっていた兄・池田長幸の後継者問題で諍いがおき、刃傷沙汰に。そのため長頼は切腹します。その長頼の子に長忠の名があるのです。ただ、長頼が切腹したのが寛永9年。この五輪塔が建てられたのは慶安2年。長頼が亡くなってから17年後ということになり、ちょっと不自然な感は否めません。でも、17年目というと十七回忌(本当は16年目ですが・・・)と言うこともありますし、切腹騒動というゴタゴタがあったことなので、それも致し方ないことかと思ったりしています。と、ここまでが私が妄想逞しく、ネットで調べたことです。例によって、とんでもない間違いをしているかも知れません。お詳しい方、ご教示くだされば嬉しいです。

梅の収穫

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今年は梅の実が落ちて困るという記事を2回も載せたのですが、その梅もようやく収穫の時を迎えました。梅の実も大きくなってきて、中にはご覧のような蜜(果汁)が垂れてきている実もあります。一見すると、よく熟して美味しそうに見えますが、本当はカメムシがあけた穴や枝で擦れて出来た擦り傷などから落ちてくるようです。ですから梅の実としては傷がついたB級品。被害が広がらないうちに収穫しなければと思うものの、もう少し置いておくと更に大きい実になるかもと、1日延ばしにしていたのです。このあたりに私の「いじましさ」が表れているようで、お恥ずかしい限りです。ということで、遂に意を決して本日早朝から収穫することにしました。結果は・・・

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粒選りのB級品揃いですが、何と4Kgも採れたのです。こんなことは久しくなかったこと。いつもは産直で買い増してというか、本当は買い増す方が多かったのですが・・・、梅ジュース(梅シロップ)を作っていたのです。今回は我が家の梅だけで事足りそうです。ちびっ子達は我が家で作るウメジュースが大好き。喜ぶ顔が目に浮かびます。それにつけても、あの落ちてしまった梅の実達、残っていたらと思うとちょっと残念。それと、どうしても手が届かず、取り残したウメの実が、やけに大きく見えたりして・・・。これも「いじましさ」の表れなのでしょうね。沢山採れすぎると、持て余すことは分かっているのに・・・。まだまだ、心の修行が足りないようです。

宿題を済ませてきました。丹後田辺藩主・京極家墓所 (高野山・奥の院)

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5月7日のブログにあげた「中途半端ですが・・・丹後田辺藩主・京極家墓所」 それは地輪しか撮っていなくて、五輪塔全体の写真がないものでした。それで、今回はその五輪塔を撮ろうと探してみたのですが、それがなかなか見つからない・・・。その時のメモも見ながら探したのですが、見つからないのです。何度も何度も行ったり来たり、登ったり降りたりしながら、やっとの事で見つけることが出来ました。それが、この二基の五輪塔なのですが、写真に写っている五輪塔の向こう側、平地の部分から探していたのです。刻まれている文字は、そちら側からは見えないのです。この写真も五輪塔の全体像は写っていません。理由は、この手前は急斜面で、これ以上バック出来なかったためです。それにしても焦りました。一ヶ月経つか経たないかで、場所が特定できなくなってしまっている・・・。歳も歳だし、そろそろややこしくなってきたのかなと心配しながら探したのです。それだけに見つけたときは「なーんだ、反対側から見なければならなかったんだ・・・」と少し安心したことでした。

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というわけで、一段低いところから撮った五輪塔の写真です。念のため、場所を書いておきます。21町石近くの左手高台にある加賀大聖寺前田利治墓所の更にもう一段高いところにあります。なお、この墓所の説明については、最初にある「中途半端ですが・・・丹後田辺藩主京極家」をクリックしてご覧下さい。これで宿題を済ませることが出来てホッとしています。