給餌の終わり

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暖かくなってきたので小鳥たちへの給餌も終わりにしようかと話していたある日の様子です。いつものように一番早くやってきたスズメが朝食を食べ始めたのですが、決まって威嚇しをかけに来るヒヨドリが案の定やってきました。慌てて木の上へ避難したスズメたちです。でもやっぱり餌が気になるしと、意を決して再び餌を食べに舞い降りました。

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ミカンをつついていたヒヨドリは「ん?なんだ、こいつら・・・」とスズメたちが気になるものの、飛んでいって追い払おうとはしませんでした。暖かくなってきたので餌が豊富になってきたからでしょうか。衣食足りて礼節を知ると言いますが、衣は別として食が足りるようになるとヒヨドリも寛容になってくるのかも知れません。ということで今期の給餌は終わりにしようと思ったのですが・・・

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ヒヨドリがミカンを食べた跡です。なんと綺麗に食べていること。あの意地の悪い鳥とは思えないほどです。こんなに綺麗に食べてくれているならと残っているミカンを見に行ってみると、傷みかけたミカンが2個。そのままにしておくよりはと、この2個で今期の給餌を終えることにしました。餌が乏しくなる冬になったら、またいらっしゃい、メジロちゃん、ヒヨドリ君たち、待ってるからね。

丹生川上神社中社への道中  国栖へ

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いつの頃読んだのか定かではないのですが、神武天皇と国栖衆ということが私の頭にインプットされているのです。今回、丹生川上神社中社へ向かう途中、「国栖」と書かれたバス停を目にしました。「ここだったのか、ここは神武天皇と所縁のある地。絶対に神武天皇と関わりのある神社があるはず」と例の私の思い込み。帰りに寄ってみなければと思いながら、丹生川上神社の参拝を済ませたのですが、さて、その帰り・・・

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例によって伴侶がこの石碑を見つけました。「魚見石」と刻まれています。魚見石の由来について説明されていましたので転記しておきます。「神武天皇御東征の砌、丹生川上の地に於いて天神地祇を祀り大和平定の成否を問われ、厳瓮を丹生川上神社の神域の夢淵に沈められるや、やがて吉兆のあらわれ大小の魚、木の葉の如く酔い流れ尊い神助の瑞祥を得られた。その魚の流れる様を臣の権根津彦が見届けた場所を古くより魚見石と言い伝える。昭和十二年五月史跡顕彰の為、石碑を建立するも両三度の災禍を蒙り、川筋の景観一変せるを以て小区篤志の協賛により碑を高所に迁し、顕彰のの意を継ぐ。昭和五十六年八月六日造成」 ほら、やっぱり神武天皇が出ている。きっと国栖にも神武天皇所縁の神社があってもおかしくないと確信し、車を走らせました。

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国栖の集落に入ったところにこんな立派な神社が建っています。でも、御霊神社と書かれていました。以前、五條市にある御霊神社を訪ねたことがあるのですが、そこは井上内親王を祀った神社。その他にも非業の死を遂げた早良親王、橘逸勢などを祀ったものもあるようですが、神武天皇と御霊神社がどうしても結びつかない。それでこの神社の前の駐在所に居られたおまわりさんに聞いてみることに・・・。「あのー、国栖に神武天皇路祀った神社はありませんか」何の根拠もない私の質問にあれこれ資料を取り出して親切に調べてくれたのですが結局分かりませんでした。それで、これも何かのご縁と御霊神社にお参りすることにしました。

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神社は見上げるような高いところにあります。下りに弱い伴侶を残して一人でお詣りすることにしました。

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登ってきたものの、どなたが祀られているのか皆目分からない。あきらめて急な階段を降りていったのですが・・・

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おーっ、神武天皇の名が刻まれた石碑があるではありませんか。明治天皇・神武天皇 遙拝所とあります。遙拝所は遠くから拝む場所。ですからここは明治天皇(東京)と神武天皇(橿原)を拝む場所なのかしら・・・。良く分からないのですが、神武天皇の名があった事に満足して御霊神社を跡にしました。親切なお巡りさんにお礼を言って出発する時、「お気をつけて」と声をかけてくださったのが嬉しかったです。実は、このときもう一つ行ってみたい神社があったのです。丹生川上神社を出発する時、適当に見当をつけてカーナビにセットしておいた神社です。すぐ近くだったので行ってみることにしたのですが・・・。 ここからちょっと変な話になります。よろしければ読んでみてください。もうここでやめてもらっても結構です。

駐在所を出てからナビの示す神社は川向こうになっていました。橋を渡ってナビの指示通りに進んでいったのですが、道が山の方に入っていくし、だんだん細くなってくるので、大丈夫かなと思いナビを確かめてみると、目的の神社は向こう岸(通ってきた方の側)になっている。あれっ、間違ったかなと思いながら元来た道を引き返したのですが、今度はまた目的地の神社は対岸にあるようになっている。それで再び橋を渡り、最初通った道を進んでいったのですが、ナビを見てみるとやはり目的地は対岸になってしまっている。なんじゃ、これ。変なのと思い、ついにあきらめて帰途についたのですが、ナビを見ていた伴侶、やっぱり川の向こう岸になっているよ。来るな!と神様が言っているのかしら・・・、 こんな変なことってあるのかしら・・・。御霊神社に何か失礼なことをしたのかしら等といろいろなことが頭をよぎるのですが、みんな忘れることにして帰ってきました。本当に不思議な出来事に出くわしたものです。長く生きていると不思議な事の一つや二つ、巡り会っても不思議ではないかと・・・。

ということで、丹生川上神社中社のブログはお開きにしたいと思います。お付き合い頂きありがとうございました。途中、いろいろ寄り道してごめんなさい。

丹生川上神社中社への道中 その3 天誅組終焉之地

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和歌山県から奈良県へ入ると、そこは五條市。1863年8月尊皇攘夷決行を控え、天皇の大和行幸が決まり、その先駆けとして公家の中山忠光を筆頭に吉村寅太郎ら天誅組が千早峠を越え、五条代官所を襲います。それが8月17日のこと。ところが翌18日になると八月十八日の政変がおこり、京の都から尊皇攘夷派は追放され、天誅組は宙ぶらりん状態になりチリジリに敗走することになります。志は達成されなかったものの明治維新の先駆けとしての最初の働きがあったことで、五條市は明治維新発祥の地と言われています。と、ここまでは知っていたのですが、天誅組の志士たちはこんなところで果てていたのですね。知らなかった・・・。

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川に架かる橋の手前に天誅義士吉村寅太郎原處と刻まれているように思います。「」は「エイ・うずめる」ということのようですので、この地に埋葬したという意味でしょうか。難しい言葉ですね。

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橋を渡ると少し開けた場所があって石碑が建てられています。こちらはには吉村寅太郎君原處と刻まれているようです。

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天誅組総裁 吉村寅太郎 遺詠 吉野山風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ 凄惨とも言える感じのする歌です。どうしてこんなことになってしまったのか分からないと言った無念な思いがにじみ出ているように思います。五條市から東吉野村、奈良県の西から東まで、ずっとこのような思いを持ち続けたのでしょうね。言ってみれば梯子を外されてしまったようなものですから・・・。東吉野村には天誅組の遺跡はここだけでなく、あちこちにあるようです。

おかげさまでブログも14年目に入りました

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窓から外を見ると冷たい雨が降っています。天気予報では最低気温9℃、最高気温12℃ということのようです。一時の暖かさが嘘のように感じられる寒い朝になりました。2010年3月25日に我が家の山桜を取り上げることで始めたブログですが13年を過ぎ、今日から14年目に入ることになります。その山桜はこんな感じ。あのときと同じみたいかなと思ったのですが、心なしか蕾も膨らんでいるように思い、改めて2階から見てみると・・・

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開花している花も少し見られますが、ほとんどが開花し初めといった感じです。北山(和泉山脈)の山桜は、もうしっかり咲いているというのに、相変わらずのスローペースです。でも、13年前に比べると開花が速くなってきているようです。これも温暖化のせいでしょうね。

振り返ってみると、ブログを始めて以来、楽しいことも多々ありましたが、大切な人が3人も逝きました。2人は順当なことで仕方が無いのですが、内1人は私たちの掌中の珠ともいうべき大切な宝物。その宝物が私たちより早くに旅立ってしまうという衝撃的なことでした。以来、私たちは残された者のため、あと何年続けることができるかどうか分かりませんが、できるだけのことをしなければと気を引き締めて日々過ごしています。紹介欄にも書いたのですが、平穏な生活って本当に長くは続かないものなのですね。

「年年歳々花相似たり、歳歳年年人同じからず」 実感しています。

ブログはまだ丹生川上神社の途中ですのに、また寄り道をしてしまいました。ごめんなさい。

丹生神社中社への道中 その2 ニホンオオカミ

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大きなニホンオオカミの看板がありました。「ニホンオオカミ最期の地 東吉野村」とあります。ニホンオオカミが最後に見つかったのは大台ヶ原と思っていたのですが、東吉野村だったのですね。山でオオカミに出くわしたら、そりゃあびっくり、怖いと思うかも知れませんが、滅んでしまうと何だか悪いことをしたような後ろめたさがつきまといます。元はと言えば、君たちオオカミの住む場所だったのにね。人間が進出することによって滅亡させてしまったからと思うのです。側の小さい看板には「ニホンオオカミ像はここから約5kmの地点にあります」と書かれていました。行けたら良いね、と話していたのですが・・・。丹生川上神社中社に行く途中にはありませんでした。丹生川上神社のお詣りを終え帰るときカーナビをセットしたのですが、出てきたいろいろなコースの中で選んだのが最短で国栖に出る道でした。来た道と違うようだけどまあいいかと車を走らせました。

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東吉野村役場を過ぎて少し行くと、右手に何とニホンオオカミの像がありました。ラッキー、この道を通って良かったねとオオカミの像を見たり、説明文を読んだりしました。

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   この写真で書かれている文章はお分かりかと思いますので、改めて記すことは止めにしておきます。最後のニホンオオカミは8円50銭でイギリスに買われていったのですね。今は大英博物館にあるとか。当時、これが最後のニホンオオカミだとは知らず、厄介者のオオカミを買い取ってくれるならと喜んで売ったのでしょう。後になってそれがとても貴重なものだと知っても後の祭り。こういったことは今の日本にも言えることだと思います。風潮に流されず、真剣に物事を考えて行動しなければならない時ではないかとニホンオオカミの像を見て思ったことでした。

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「狼は亡び 木霊は 存ふる」 とありますが、句碑なのでしょうね。五七五でいうと 「おおかみは ほろびこだまは ながらふる」でしょうか。間違っていたらごめんなさいです。ニホンオオカミの像を見て出発したのですが、しばらく行くと、「この先は通行できません、回避する道もありません」というようなことをカーナビが繰り返し教えてくれるようになりました。要するに通行不可と言うことなのでしょう。仕方なく引き返すことにしたのですが、それならこのルートを選んだ時点で教えてくれたら良いのにとぼやく私に、伴侶は「おかげでニホンオオカミの像が見られたからいいじゃない」だって。それで気がついた。来るとき、やたら遠回りをしているように思ったのですが、この道を避けていたのですね。結局、来るときと同じ道を帰ることになりました。

藤原宮跡の菜の花畑  (橿原市・醍醐町他)

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以前藤原宮跡のコスモスを見に行ったことがあるのですが、今回は菜の花畑を見に行ってきました。梅、桜、菜の花といった花を見ると春を実感します。場所は藤原宮跡・大極殿跡のあるエリアの道路を隔てた北側です。車はいつも通りのところへ駐めることができます。菜の花はほぼ満開で、春を満喫することができました。菜の花の向こうに見えている山は耳成山です。

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一面菜の花畑と言った感じです。

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虫たちも忙しそうに、花から花へと飛び回っています。と、これまでの写真は菜の花だけを写しただけのものですが、本当は・・・

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花を見に来ている方もいらっしゃいますし、菜の花畑と耳成山の間には家もたくさん建っています。写真って、便利ですね。写す位置によって、全然違った感じになってしまう。皆さんは、行ってみて、想像していたような風景ではなかったというような経験はありませんか? 話は変わりますが、飛鳥がどんどん変わり、かつての面影がなくなっていくのを見て残念がる皆に「我慢しましょうよ、飛鳥が無くなってしまうわけではないのですから・・・」と犬養孝先生が仰っていたと伴侶が話してくれたことを思い出しました。飛鳥が急激に変わっていったのは高松塚古墳の壁画発見が一つのきっかけになっていたように思います。

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ついでと言っては何ですが、これは菜の花畑と三輪山です。三輪山は少し離れているので判りにくいかも知れませんが、菜の花畑の向こうに植えられている桜並木(多分・・・)のちょうど真ん中辺りにある2本の木の奥に見える手前の山です。

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少し撮る位置を変えて見ました。左右に写っている桜の枝が、丁度三輪山を指し示してくれているようです。三輪山は万葉集にも数多く詠まれた有名な山です。この麓には大神神社(大三輪神社)があり、そのご神体が三輪山です。667年天智天皇の近江遷都の時に詠まれた額田王の歌が有名ですよね。 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや 反歌 三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなむ 隠さふべしや いにしえ人の愛してやまなかった三輪山、その秀麗な山は今も私たちの心を引きつけているように思います。

いまブログは「丹生川上神社への道中」の途中ですが、ちょっと息抜きに寄り道をさせて頂きました。

丹生川上神社中社への道中 その1 道しるべ

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宮滝を過ぎ、国栖を過ぎカーナビの示すままに車を走らせていたのですが、やたら遠い気がしてならない。どこに連れて行ってくれるのだろうと心配しながら進んでいくと、こんな案内標示が出現! 桜井、東吉野(目的地)は奈良県なので良いとして、「松阪」ですと?松阪って三重県じゃない。びっくりする私に、「あまり時間がかかるようだったら、どこかに泊まればいいじゃない」と平然と言ってのける方が一名。何を考えてるのかこの方は・・・。泊まる泊まらないの問題じゃあなくて、私自身の見通しの甘さに愕然としていたのです。仕方がないので右にハンドルを切って進んでいったのですが、ちょっと私のカーナビおかしいんじゃない?何食わぬ顔をして遠回りの道を教えてくれているのでは?という心配がつきまといます。(実はその理由が帰るときになって分かったのですが、それは後ほどと言うことにしますね。それと東吉野村は三重県松阪市に隣接しているのですから「松阪」とあっても別に不思議なことではないですよね。思いもかけぬ地名の出現に気が動転していたと思われます)

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「ちょっと変わった立派な道しるべがあるよ!写真、撮らないの?」 なるほど、あまり見かけない立派な道しるべが立っていました。南 右 いせ 江戸、左 はせ 大坂 みち とあります。こんな山奥の道なのに、江戸とはなんとスケールの大きな道しるべでしょう。松阪ぐらいでびっくりするなんて恥ずかしい・・・。

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こちらは 西 右 小川谷 河上 左 いせ くまの 道とあります。いつ頃のものかともう一面を見てみると・・・

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文政十一年戊子年とあります。約200年前の道しるべのようです。

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伊勢街道の道しるべのようです。道理で立派な屋根付きだったんだね、伊勢街道なのだから松阪と案内標識に書かれていても仕方がないかもねと低次元極まりない二人の会話です。ということで、今回は新旧2つの道しるべについてご紹介しました。

丹生川上神社中社 えーっ、蟻通だって? (奈良県東吉野村小)

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丹生川上神社周辺を散策しているときに、こんなバス停を見つけました。えーっ、蟻通だって?どうしてこんな所に蟻通が・・・。蟻通→蟻通神社については、これまでも取り上げてきているのです。まさか、こんなところにもあるなんてとびっくり仰天。

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橋の欄干にも「蟻通橋」と書かれている。もしかして、この辺りに蟻通神社があるのではないかと探してみたのですが・・・。

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高い位置に祭られているお社がありました。少しドキドキしながら確かめてみると、右が水神社でご祭神は高龗神・闇龗神、左が東照宮でご祭神は徳川家康となっていました。いずれも蟻通神社とは関係がないような・・・と、思っていたのですが、気になって家に帰ってから確かめてみると「県民だより奈良」に蟻通明神ということで「「蟻通明神・蟻通神社という、ちょっと変わった名で知られる丹生川上神社中社」とでていました。私の近所にある蟻通神社は清少納言由来、最近行った泉佐野市の蟻通神社は紀貫之由来、こちらの蟻通神社(丹生川上神社中社)はどちらかというと私の近所の蟻通神社に似ているような気がしますが、蟻の熊野詣ではなく、こちらは蟻の吉野離宮詣であったそうな。同じ名前の神社にも地域性があるようで面白いですね。ということは、もしかして本宮というのは蟻通神社だったのかしら・・・。詳しくは県民だより奈良・蟻通明神をご覧ください。 https://www.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2007/tayori1910/naranomukashi1910.htm

次はお詣りした後のリラックスタイムの2枚です。

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伴侶がまた変わったものを見つけました。「ねえ、これサルスベリの木だと思うのだけど・・・」どこが変わっているかお分かりですか?右の方の木が二股に分かれていますよね。地面の方を見ると二本の木のように見えるのですが、上に行くと、こんな風に繋がっている。まさか気根ではないよね。下から伸びてきた細い木が繋がったのかしら・・・。こんなの珍しいよね。太い方の木がが杖をついているようにも見えるし・・・。とまあ、いつものことながら妙なものを見つける伴侶さまでした。

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またまた目にしたこの植物。宮滝で見たとき名前を忘れていた因縁の植物です。その時、この次見たときはきっと覚えているだろうと大見得を切ったのですが・・・。「これ、覚えてる?」「覚えてるよ、マメヅタだよ」内心、覚えていてよかった~と思いながら答えたのですが、はて伴侶さま、私を試してみたのか、それともご自身はお忘れになっていたのか、なんとも意味深な会話でありました。

ということで、丹生川上神社の三社巡りを無事終えることができました。次回からは「道中での彼や是や」について書いてみます。よろしければお付き合い下さいませ。

丹生川上神社中社 東の滝 (奈良県東吉野村小)

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丹生川上神社にほど近い東の滝へ行ってみました。この吊り橋を渡って行くことになります。この吊り橋はしっかりしていて歩いていてもほとんど揺れを感じません。

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吊り橋の途中から見た景色です。左に見える赤い太鼓橋(反り橋)の奥に目的の滝があるように思えます。それにしても清らかで美しい流れだこと・・・。

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東の滝です。落差はそれほどでもないのですが、美しい水、深そうな滝壺、大きな岩に囲まれて流れ落ちる滝からは神々しさが漂ってくるようです。

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滝の落口です。岩の中からほとばしり落ちているようで清冽そのもの。すぐ側にはお不動様が祀られていました。

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ほとばしるように左右から流れ下る二つ(東の滝の流れを入れると3つ?)の川が合流し、しばしの間揺蕩った後、再び向こう側(橋脚のある方)へと流れ下る夢淵です。夢淵・・・。良い響きですね。見ていて本当にそんな感じがしてきます。

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山口誓子の句碑がありました。案内文を記しておきます。「夢淵と山口誓子 夢淵の付近一帯は風光明媚な地で古来より多くの歌に詠まれている 神武天皇が東征と全国平定を完遂して 畝傍山の麓橿原宮に即位したのは 全く丹生川上の紺碧の深い淵に厳瓮(いつべ)を沈めて天神地祇を敬祭せよという天神の夢の訓の賜であるとして感謝の誠を捧げられたことからこの地名が生まれた 近くの日裏川の「東の滝」にも古来よりの伝承と丹生川上神社との歴史の中に数多くのロマンを秘めている 平成元年初夏 山口誓子がこの地を訪ね 当地に感嘆して御作を吟じられ同年十一月三日句碑の除幕が行われた 「滝の水 直ぐ透き通る 神の淵(わた)」

慕い合う二人、上智さんと蓮阿さん 2基の碑 (高野山・奥の院)

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今日はホワイトデー。本来は愛を告白してくれた女性に男性が応える日ですが、最近の傾向はどうなっているのか良く分かりません。ところで、高野山にもお互い慕い合っていた男性と女性がいたことをご存じでしょうか。この写真は奥の院・中の橋近くにある有名な禅尼上智碑です。女性である上智さんの後生を祈って男性の蓮阿さんが建てたものと思われます。女人禁制の高野山でも、碑を建てることは許されたのですね。この碑は県の文化財に指定されています。当初、この碑は単独のものと思っていたのですが、実はこの碑には対になるもう一つの碑があるのです。

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これは蓮阿さんの後生を祈って上智さんが造った碑です。蓮阿さんが建てた碑は砂岩ですが、こちらは緑泥片岩でできています。同じような形状ですが、こちらの方が綺麗な形で残っています。これを見つけたとき、おーっ、大発見!と思って、いろいろ考えあぐねた末、高野町の教育委員会に連絡しようと伺ったのですが、この碑は転がっている状態ですから、元々どこにあったのか分からない。こういった碑は文化財としての価値は低い、とはいうものの奥の院にあるもの全て大切なものなのですというような趣旨の説明をしていただきました。誰かがこんなところへもってきたばっかりに不当な扱いを受けていると、ちょっとばかり義憤に駆られたのですが、ペアーの碑が存在するのは事実。この碑は蓮阿さんが上智さんの碑を建ててから6年後に上智さんが蓮阿さんのために建てたものです。お二人とも仏門に入っておられたようですので、いわゆる男女の仲というのは当たらないかも知れません。でもお二人は互いに純粋に敬慕する仲だったのでしょう。今風ではないと思いますが、こんな形の愛があってもいいのではないかと思っています。バレンタインデー的に考えると、思いを伝え、それに応える順序は逆な形になっていますが、私たちの時代はこれが普通だったように思います。これまで、この件について何度も取り上げてきたのですが、この石碑の位置は伏せていました。お知らせすると誰かにいたずらされては困るので・・・。でも今日はホワイトデーですので、お知らせすることにしました。場所は一の橋から少し行った左側にある小田原北条家墓所へ続く小径の途中、左側にあります。是非お二方の碑にお詣りしてさしあげて下さいませ。

この件について、1年前から「この碑と禅尼上智碑との関係は?」から始まって何度も取り上げてきました。よろしければ、どうぞご覧になって下さい。 注:今回使用した写真は以前使ったものの再掲です。改めて行って写真を撮ってくれば良かったのですが、この冬の寒さでしもやけが酷く、ずっと足の裏にカイロを貼って凌いでいたものですから靴が履きづらかったのです。その上、暖かくなってきた今はスギ花粉。またそのうち、お二人の石碑にご挨拶に行かねばと思っております。