筑前黒田家墓所(高野山・奥の院)

黒田家墓所1

昨年のNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」で取り上げられた黒田家墓所です。がちっと石の門を閉ざして守りを固めているような感じがします。こんな形をした墓所は他にもあったかなあ。ちょっと少ないような気がするのですが・・・。(この墓所は三代藩主・光之のものです。黒田家墓所ではあるのですが、官兵衛の墓所ではありません)なお黒田家墓所については、2016.10.7 黒田家墓所 2 2016.10.8 黒田家墓所を確かめに 2017.12.19 筑前黒田家墓所(一の橋近辺) もご覧ください。

黒田家墓所2

こちらも黒田家墓所です。五輪塔の前に鳥居がある奥の院でよく見る形式の墓所です。ただし、藩主のものではなく左が三代藩主光之の正室、右が光之の母の五輪塔です。(2016.10.8改稿) どちらもよく維持管理がなされているようです。ところがこの近くには・・・

これは・・・

五輪塔の前には石灯籠が配され、鳥居も建てられている墓所です。でも鳥居は壊れたままで特に手入れがなされているような気配はありません。格式ある家柄の墓所と思われるのですが、私の持っている案内図には記載されていません。このまま自然へ還っていくのを待つだけなのでしょうか。立派な墓所だけにちょっと寂しい気がします。追記:2017年1月9日のブログ「この墓所は越前福井・松平家?」をご覧ください。

雪の合間のお参り(高野山・奥の院)

奥の院

現在、高野山内の道路には積雪はないとの情報を得て、それならばということで出かけてきました。昔は高野山が真っ白になっているのを見て、雪遊びを兼ねてお参りしたのですが・・・。かつての行動力はどうなってしまったのだろうと思う今日この頃。やはり年の所為でしょうね。今回の奥の院はこんな具合でした。雪はない代わりに昼過ぎからは雨の天気予報。予報通り、家に着く頃に雨が降り始めてきました。雪と雨の合間を縫ってのお参りになりました。

水行場

水向け地蔵の後ろを流れている玉川の水行場です。先日、ここで寒行をしているニュースを見ました。見ているだけで震え上がりそうな映像でした。この日のお昼の気温は約10℃。この時季にしては高すぎる気温ですが、手を漬けてみようという気も起きませんでした。夏ならば別ですが・・・。

トクサ

木賊

トクサ科の常緑シダ植物で、節の部分を黒く取り巻いているのが葉だそうです。丁度ツクシのハカマの部分に似ています。どちらもトクサ科のシダ植物ですから似ているのは当たり前かもしれません。いろいろな植物の中でトクサほど変化に乏しいものはないように思います。春夏秋冬、同じように緑色をした棒が立っているだけといった感じです。でも、その変化のない素朴さが魅力なのかもしれませんね。茎にガラス質の粒ができるるので、昔はサンドペーパーのように使われたため砥草とも書きます。ところでトクサは木賊、イカは烏賊と書き、どちらも「賊」(ぞく)という良くない意味の字が使われているのはどうしてでしょう。両方とも人間にとって有用なものであると思うのですが・・・。

移築された応其上人五輪塔(橋本市高野口町)

応其上人new五輪塔

2011.6.3のブログ「引の池の巨大看板」の中で応其上人の五輪塔を紹介させていただいたのですが、その後しばらくの間、五輪塔がなくなっていました。気にはなっていたのですが、なかなか行ってみる機会もなくそのままにいなっていました。久しぶりに訪ねてみると元あったところから北の方に移築されていることがわかりました。道路改良工事で土を運び出した跡地に移したようです。新しい玉垣に囲まれた古い五輪塔には少し違和感を覚えます。でもそのうち時がたつにつれ木も生い茂り、玉垣も苔むしてくると古色蒼然たる雰囲気になってくることでしょう。尤も、そんな情景を目にするのは次世代の人々。私がそんな光景を見るということは、まずできないと思いますが・・・。

フキノトウの子

フキノトウ?

これは2014.3.16のブログでご紹介した我が家のフキの現在の状況です。昨年久しぶりにフキノトウを見たので張り切って肥料をやるなどして世話をした甲斐あって、こんなにたくさんのフキノトウの子ができていました。この写真の中だけでも少なくとも4つはあります。フキノトウというのは少し黄緑色になったものをいうのですよね。ですから今回はフキノトウの子ということにしました。これ以外にできているのを含めると10個以上もあるようです。今年はこの子達が食卓に早春の香りを届けてくれることになりそうです。

船岡山の万葉歌碑(伊都郡・かつらぎ町)

犬飼孝先生歌碑

船岡山にある故・犬飼孝先生の揮毫による万葉歌碑です。背の山に 直(ただ)に向かへる 妹の山 事許(ゆる)せやも 打橋渡す (万葉集7-1193) 背の山の正面に向かい合っている 妹の山は背の山の言うことを聞き入れたのだろうか 通える打橋が渡してある という愛の歌です。この妹山と背の山の間を流れている紀の川にある中州・船岡山は、さしずめ妹山と背の山をつなぐ打橋の橋脚だったのでしょうか。

厳島神社

船岡山にある厳島神社です。この船岡山は前回のブログにも書いたとおり別名「へびじま」ともいわれています。紀の川が増水したとき、たくさんの蛇が漂着し、住み着いているのでそういう名前がついたと聞いています。長ものに弱い私ですので、今の季節なら絶対にお目にかかることはないだろうと行ってきました。所々に倒木はあるものの綺麗に整備された遊歩道を何の心配もなく散策することができました。

吊り橋

写真は船岡山と紀の川南岸を通る県道13号線とを結ぶ吊り橋(厳島橋)です。左が妹山の麓に当たります。船岡山と北岸の背の山の間にも橋が架かれば万葉集の情景が再現することになりますがそれは期待薄でしょう。ちなみに、この橋の下を流れている紀の川は昔はこんなに水量が多くなかったのです。治水事業で南側を流れやすくしたようです。私の知っている紀の川の流れは治水事業前の様子、即ち、かの有名な紀伊国桛田荘(かせだのしょう)絵図に描かれているものと同じだったのではないかと思われますが、昔からの景観も土木技術の発展により一瞬にしてその形を変えてしまうのですね。良きにつけ悪しきにつけ・・・。船岡山にいらっしゃるなら吊り橋の橋梁左に車が小さく見えていますが、そこが無料駐車場になっています。吊り橋を車で通ることはできませんので・・・。念のため。

妹山背山・万葉歌碑(伊都郡かつらぎ町)

人ならば

JR和歌山線・西笠田の駅の南、国道24号線沿いにある万葉歌碑です。人ならは 母の愛子そ あさもよし 紀の川の邊の 妹と背の山 (巻7-1209)。妹山・背山を子どもにたとえて母と子の愛情を歌ったものです。わかりやすくて私の好きな歌の一つです。妹背山という所は全国にあるようですが、万葉集に紀の川と妹背山がセットで歌われていることから、各地にある妹背山の原点はここであるように思います。この歌碑の後ろというか下は紀の川で、その向こうに見えるこんもりした丘は紀の川の中州の船岡山(別名・へびしま)です。実はこの歌碑、昔は側に松が植わっており、とても印象的なところだったのですが、その松も枯れ、特に手入れがなされている様子もなく、ご覧のような風景になってしまっています。かつては車で通っていても、すぐにこの歌碑は目に付いたものですが、最近は何人の方が目にとめておられることやら。このあたりは紀の川沿いで一番の景勝地だと思っているのですが・・・。ちょっとさびしい気がします。

マーブルビーチ(泉佐野市・りんくうタウン)

マーブルビーチ

観覧車から見えていた海岸に行ってみました。綺麗な貝殻でも落ちていないかと期待していったのですが、海岸は砂浜ではなくご覧のような丸い石ころが敷き詰められた完全な人工の浜でした。ちょっとがっかり。

波打ち際

ですから、波打ち際はこんな状態。きれいといえばきれいと言えるかもしれませんが・・・。ちょっと微妙な風景でした。日本の美しい海岸を表現する白砂青松などという言葉はだんだん実感できないものになっていくのかもしれませんね。大阪湾で自然のままの砂浜はほとんど残っていないと聞いたことがあります。でも青松は整備されていました。

こんな石

左下に写っているのは、帰り際に石ころの浜で見つけた丸い石です。普通の浜辺でこんな丸い石を見つけたら記念に持って帰ったかもしれませんが、人の手によって作られた浜ですからそういうわけにはいきません。この浜でこんな石を見つけるのは容易なこと。ですから珍しくも何ともありません。ということで記念写真を撮った後、また元に戻しておきました。ちょっと違った意味で印象に残ったマーブルビーチでした。

海を見に・・・(大阪府・泉佐野市りんくうタウン)

関空

皆様、良いお正月を過ごされましたか。お正月騒ぎが一段落し、ほっとしていたとき急に海が見たくなり出かけてきました。風もなく穏やかな日和で、りんくうタウン周辺の散歩を楽しんできました。写真は関空連絡橋と離陸した飛行機です。飛行機が小さくて迫力に欠ける写真でごめんなさい。

観覧車

観覧車がゆっくりゆっくり回っているのを見ていると、乗ってみたくなり、乗ってみました。お正月も過ぎたからでしょう、お客はほとんど乗っていませんでした。観覧車に乗ったのは何十年ぶり。こんな乗り物に乗るとなんだか若返ったような気持ちがしてきます。周りの人には「ええ年をして」と思われていたかもしれませんが・・・。

和歌山方面

観覧車から見た和歌山方面の景色です。穏やかで暖かいのはいいのですが、春霞のように遠くがかすんでしまっていて眺望がきかずちょっと残念。15分の空中散歩を楽しみました。下に見えるのは府道63号線で、向こうに田尻スカイブリッジの橋梁が見えています。機会があれば夕景を観覧車に乗って見てみたいものです。次回使用できる割引券をもらったことですし・・・。

町石道のスタート・百八十町石(九度山町・慈尊院)

180町石

九度山町慈尊院から高野山根本大塔へと続く町石道。その起点を示す町石がこの百八十町石です。慈尊院から丹生官省符神社へ登っていく石段の途中にこの町石があります。ここから高野山上までこの町石を道しるべとして登っていくことになります。一町(約109m)ごとに建てられていますから道に迷うといったことはなさそうです。ところでこの町石、登って行くに従って次は百七十九町、その次は百七十八町とその数が減っていきます。こうすると後残りは何町だからがんばって登ろうという気になります。逆にその数が増えていくようにしてあると、これまで歩いてきた道のりはわかりやすいのですが、後どれくらい登れば到着といった事は少しわかりにくくなるように思います。目的地がわかっている場合の道しるべはこのような形式に限ります。これも先人の知恵と言えるのではないでしょうか。

石仏や五輪塔

逆に目的地が不確定のような場合の道しるべ、たとえば人生の道しるべといったようなものは、こんな形にしてはだめですね。生きることができるのはあと何年という形になってしまいますから・・・。いつか終わりを迎えることがわかっていても、どこまでも増えていく可能性がある道しるべの方が良いように思います。いつものように、慈尊院と丹生官省符神社へ初詣に来て感じたことでした。写真は百八十町石の根方に置かれている石仏や五輪塔の一部などです。さりげなく置かれているこんなちょっとしたものが、これから祈りの道を歩んでいこうとする旅人の気持ちを勇気づけてくれているように思います。よろしければ2018年2月6日のブログ「町石道のゴール 一町石」もご覧ください。