日向高鍋2代藩主秋月種春五輪塔 (高野山・奥の院)

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通りすがりにチラリと見た五輪塔の地輪、刻まれている戒名が太平洋院?まさかと想い足を止めてよく見ると大洋院でした。大洋とは大きな海、太平洋などを表すので、なんとスケールの大きい戒名だこと、どなたの五輪塔だろうと興味が湧いてきました。この五輪塔の左側にある2基の五輪塔は高鍋藩3代藩主種信夫妻の五輪塔で表から見ると鳥居に加え玉垣で囲まれています。でも裏側に回ると玉垣の一部は残っているものの壊れているのですね。そんな訳で、もしかして秋月家ゆかりの方の五輪塔かしら。高鍋藩は太平洋に面しているので、こういった戒名もありかなと思いながら・・・。

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比較的容易に解読することができました。「奉為日刕財部(たかなべ)城主前秋月長刕守太守大蔵?朝臣種春公也 大洋院殿右岩宗帆大居士神儀正覚 施主孝子佐渡守種信造建 旹?万治三庚子年八月廿一日」とあるように思います。ネットにでている戒名は岩の字が嚴となっていますが、これは問題ないと思います。没年は萬治二年10月15日ですが、この五輪塔は一周忌を前に建てられたものだと思います。高鍋・秋月氏は幕末まで続いた家ですので藩主も多く、奥の院のあちこちに墓所があります。このブログでも取り上げていますのでよろしければどうぞ。

あれっ?この石碑は・・・ その2 (高野山・奥の院)

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これも奥の院を彷徨っていた時にみつけた石碑です。なぜ「あれっ?」とびっくりしたかというと、中の橋から覚鑁坂を登り始めてすぐの右側にある県の文化財「禅尼上智碑」、それとペアの「上総入道蓮阿碑(私が勝手につけた名前です)」の二つの碑と同じ形式だったからです。ちょっと感動! 正面に刻まれている文字は「先祖代々精霊」、右側面には河州天見村とありました。大阪に行く時いつも通る国道371号線の紀見トンネルを越えたところが「天見」なのです。なじみ深い地名に出会ったことで嬉しくなってしまい、左側面を確認するのを忘れていました。もしかして建てられた年月日や建てた人の名前が刻まれていたかも知れないのに・・・。いつものこととは言え、私の詰めの甘さが露呈してしまいました。雀百まで踊り忘れずって言われていますが、本当ですね。いつかまたこの碑と再会できるかしら・・・。

あれっ? この石碑は・・・ その1 (高野山・奥の院)

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例によって奥の院を彷徨っていた時見かけた石碑です。あれっ?と思ったのは弘法大師と圓光大師が並んで刻まれていること。右に弘法大師、左に圓光大師(浄土宗の宗祖・法然)、真ん中に南無阿弥陀仏の名号が・・・。真言宗と浄土宗が同居している碑ですが、奥の院には圓光大師法然上人廟もあることですし、あれっ?と驚くこともないかと思った碑です。南無阿弥陀仏の下には三界萬霊先亡後滅等と続いています。全世界中で先に亡くなった人、これから亡くなる人全てをを祀るということだと思います。その右には俗名和田治郎左衛門義治 武将軒本光浄願巻主 〇浄心信〇、左には昌嚴道〇信士浄譽清安信女などの戒名が刻まれていました。一族の方々なのでしょうか。「天下の霊場高野山」を実感できる碑のように思います。

分かりそうで分からない五輪塔 その2 永井信濃守 (高野山・奥の院)

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井伊家霊屋の一段低いところにある五輪塔です。この五輪塔も何度か挑戦しているのですが、未だ未解決なのです。井伊家墓所に近いこともあって、井伊家ゆかりの人?と思ったこともあったのですが・・・。

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地輪に刻まれている文字ですが写真に撮って調べたらすぐ判るかも・・・・・と思えるほどだったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。むしろ五輪塔と睨めっこしながらメモしてきた方がよく読めている感じです。「生国尾州知多郡今山城国淀 永井信濃守・・・三右衛門殿 専〇院殿・・・ 施主中〇〇左衛門・・・ 慶安九戊子夭八月四日」と無理矢理読んでメモしたのですが、一番ダメなのは「慶安九」と言う年は存在しないこと。慶安は1~5年なのです。干支で見ても戊子は該当しないし・・・。

三河生まれで淀藩城主、永井信濃守ということで、すぐに解決と思っていたのですが・・・。永井信濃守は淀藩初代藩主・永井尚政のことと思ったのですが、彼の没年は「寛文八年戊申」のようです。刻まれている文字はどう見ても「寛文八戊申」とは読めないように思うのです。それで永井氏の係累で当てはまりそうな人を当たってみたのですがダメでした。読み方が完全に間違っているのでしょうか。前回に引き続き、どなたかお助けくださればうれしいです。

前回は文字ははっきり判るものの、どなたか特定することができない五輪塔。今回は文字は読みにくいものの、読み取れた内容からすると、どなたの五輪塔か特定できそうなのにできない五輪塔。ということで判らない二基の五輪塔を取り上げました。世の中、なかなか思うようにはいかないものですね。

分かりそうで分からない五輪塔 その1 内藤紀伊守 (高野山・奥の院)

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中の橋から続く階段、覚鑁坂の途中、右にある小林製薬物故者慰霊碑の向かい側、高台にポツンと立っている五輪塔です、これまでも何度か見に行ったことはあるのですが、詳細が分からずそのままになっていました。この五輪塔、参道に背を向けるように建てられていることもあってか孤独感が漂っているように思います。

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地輪に刻まれている戒名です。霊灮(光の異字体)院殿正眼浄空大道人。他の面も内藤紀伊守建立西谷不動院、寛保二壬戌年十二月廿九日寂、取次江戸小日向茗荷谷棲涼菴慈山和尚とよく判るのですが、霊灮院様が具体的にどなたにあたるのか判らない。以前、越後村上内藤候を取り上げた時、内藤紀伊守の名があったことを思い出し村上藩内藤家に目星をつけて調べて見たのですが、該当する方は見当たらないみたい。そう言えば、越後村上内藤候の時も、内藤の次は紀伊守とか豊前守だけしか記されていなかったっけ。こんな所にも村上藩内藤家とつながっている方ではないかと思ったりしているのですが・・・。

調べに調べた結果、2代藩主・内藤信輝の五輪塔ではないかと勝手に思っています。理由は戒名。ネットで調べた戒名は「威徳院心譽玉峰浄眼、この五輪塔にある正眼浄空の部分の二文字に同じ字が使われていることです。一人でも複数の戒名がつけられていることがあるようですので・・・。ただし、没年が合わないのが致命的。これまでは、こんなややこしい五輪塔は取り上げなかったのですが、今回は公開させて頂きました。 お詳しい方、いらっしゃいましたらどうぞご教示下さいませ。

この石板は? (高野山・奥の院)

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高野山奥の院の御茶処(頌徳殿)前にある石板です。普段なんとなく眺めたり、気が向けば一緒に吊してある木槌で叩いてみたりしていました。何処かあるポイントを叩くといい音色がするのかしらと思ったりして・・・。でもそんなこともないようです。いったい何のために吊された石版なのでしょう。今回もこれを眺めていて、ふと昨年末に行った由良町にある禅寺・興国寺を思い出しました。尺八・虚無僧などで有名な興国寺ですが、そこには一枚の板が吊してあり、それは繰り返し木槌で叩かれることで深く凹んでいました。本来なら魚の形をした魚板・魚鼓(ぎょこ)にあたるのかも知れません。魚板・魚鼓は禅寺でよく見かけますが、それを叩いて法要や食事その他の知らせに使うものです。 ということはこの石板もこれを叩いて何かを伝えるためのもの? ここは御廟橋にも近いところです。もしかして、これを叩いてお大師様にお参りに来たことを知らせるためのものかしら。   お参りに来て、この石板に気付いた人が叩いているのをよく見かけます。そりゃあそうですよね。木槌がぶら下げてあるのですから叩いてみたくなるのは当たり前。 今度我が家に毎月お参りに来てくれるお坊さんに聞いてみようかな。知っているかな? 判ればお知らせしますね。

なかなか咲かないボタンの花

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「もう今にも咲きそうだね」と話したのは何日前のことだったかしら。以来二人の会話は「まだ咲かないねえ~」の繰り返し。もう花と言った方がいいようなボタンですが「ふんわりと合わせた手の中に何か大切なものが包み込まれているみたい」「優しさ温かさが伝わってくるみたい」「開いたボタンよりこの方が趣があっていいかもね」「赤いレタス?」 などと話して楽しんでいます。 ちなみにこのボタン、25年以上も前になるでしょうか、当時勤めていた職場にはるばる島根県の大根島から売りに来られたご婦人から買ったものです。遠い遠い昔のことですが、今でも楽しませてもらっています。

二十日大根のなれの果て

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取り残した二十日大根ですが、どういう訳かぐんぐん根っこの部分が太く大きくなってきました。どこまで大きくなるのだろうと、面白半分に放っておいたところ、ついに花が咲きました。咲く前の蕾は濃いピンクで、どんな綺麗な花が咲くのか期待していたのですが、咲いたのは、しょぼくれたこんな花でちょっとがっかり。一方、根っこ(大根の部分)はどうなっていたかというと・・・

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抜いてみるとこんな具合。立派なものでしょう? 右側は太さも十分です。食べたらやっぱり大根の味がするのかな?と思っていたのですが、その後台所に持ち込まれた様子がない。伴侶に聞くと「もう捨てたよ」ですって。この辺が探究心に欠けているんですよね。食べ物には全くといっていいほど関心がない私ですが、ことこういったものには興味があるのが自分でも不思議。という訳で切ってみたのが次の写真です。

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赤く縁取りされたハートみたいでしょう?太さは約5cmぐらいです。料理をすると、ほんのりピンクに染まって見た目にもきれいなものができるかも知れないと思って、試しに囓ってみたのですが・・・。固い!それに大根特有の風味なんかもありゃしない。こりゃダメだ、食べられそうにないと諦めました。やはりものには旬があるのですね。前回あげたキクナの花もそうですが、お遊びもそろそろおしまいにして、トマトやナスビを植える準備をしなくては・・・。

花の寝相

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こちらは何年か前、青いネモフィラを買ってきて植えたのですが、花が咲いた後、その種が落ちて生えてきたネモフィラです。植えっぱなしにしてあるので、落ちた種からギッシリと芽が出てくるのです。ですから花は小さいものの、それなりに可愛らしいので、そのままにして楽しんでいます。ところでこのネモフィラに限らず、花は夜になると花びらを閉じて、眠りの体勢に入ります。これは早朝に撮ったネモフィラの様子です。チューリップのように花びらをすぼめているでしょう? ところが日が高くなってくると・・・

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こんな具合に、ちゃんと花が開いてくるのです。花も夜になると本当に眠るのでしょうか。それとも、開いていても虫が寄ってこないので、雌しべ・雄しべを保護するために閉じるのでしょうか。でもそんな理由はあたらないと思います。なぜなら次のキクナの花をご覧下さい。

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これがネモフィラと同じ時に撮ったキクナの花です。花びらを下におろしていますね。ということは、夜間に雄しべ・雌しべを守っていないことになります。キクナの花も時間が経ってくると・・・

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こんな具合に花びらを持ち上げることで花が開いてくるのです。面白いですね。花の個性とでも言うのでしょうか。題して「花の寝相」でした。ところで、皆さんの寝相はどちらに似ていますか? ちなみに我が家では私は〇〇型、伴侶はXX型で寝ています。今回は夜に眠る?花を取り上げたのですが、夜開く花もあるのです。以前取り上げた「カラスウリの花」をクリックしてご覧下さい。妖艶で美しく、まさに夜の花?といった感じですよ。

岡公園の銅像や記念碑 (和歌山市岡山丁)

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岡公園に展示されているSLや路面電車を見終えて向かったのが岡公園。滑り台など、いろいろな遊具があり、ちびっ子達が大喜びで遊んでいる間に公園の側の丘に登ってみました。するとこんな記念碑が・・・。側に設置されている説明板には四役戦亡記念碑 ・戦死者の慰霊・顕彰碑とあります。四役とは明治の初めに起こった佐賀の乱・台湾出兵・神風連の乱・西南戦争の四つの戦のことで、この戦で戦死した和歌山出身の兵士491人の慰霊・顕彰のために明治12年に建てたそうです。この戦争は徳川・江戸幕府を倒した明治政府に対する抵抗・反乱と言ってよいと思います。徳川であった紀州の人々が反徳川の人達を鎮圧しに出かけていたんですね。ちょっといたたまれないような気持ちにさせられてしまった慰霊碑でした。和歌山城では江戸時代と言っていたちびっ子ですが、ここに来ると明治期になるようです。ちびっ子達に語るには、ちょっとばかり早いかも知れません。一人で来て正解だったように思います。

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こちらは征清記念標 。日清戦争のモニュメント です。槍のように尖っている部分は銅製で、大阪砲兵工廠でつくられたそうです。大阪砲兵工廠は大阪城公園辺りにあった兵器の製造工場です。私が高校生の頃は森ノ宮駅・京橋駅間の東側に先の大戦の空襲で焼け残った工場跡が残っていました。ここで私の出身高校の多くの先輩が学徒動員で亡くなったと聞いています。今頃はお花見の真っ最中だろうと思うのですが、こんなことを知っている人も数少くなってきたのではないかと思います。

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こちらは和歌山出身の幕末・明治期の政治家・陸奥宗光の銅像です。陸奥宗光は幕末以来、欧米と交わしていた不平等条約の解消に取り組み、日清戦争終結の下関条約を結んだ方として知られています。今問題になっている裏金問題。聞くに堪えない言い訳をしている和歌山選出の国会議員がいますが、陸奥宗光に比べるとなんとスケールの小さいことよ。そんな議員しか選出できない和歌山を陸奥宗光はどう思っているでしょう。和歌山選出の2議員に限らず、今の国会議員は御身大切が一番で、一般国民のことは余り念頭にないような方が多すぎるように思いませんか。 なお、この像は丘の上ではなく、SLが展示されている近くにあります。