播磨路プチ旅行 書写山 その3 本多家霊屋

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食堂から撮った本多家霊屋です。前回来た時は門は閉まっていたのですが、今回は中へ入ることが出来ました。中にあった案内板の内容の一部を記しておきます。

「本多家と書寫山圓教寺」
書写山第一の霊地である大講堂横に「本多家霊屋」として十一基の墓碑が、土塀に結界されて祀られている。西岸寺殿忠勝公(一六二六)、大乾院殿忠政公(一六三一)、法輪院殿政朝公(一六八五)、高松院殿政長公(一六八五)、徳宗院殿忠国公(一七〇四)は、立派な宝形造りの霊屋内に五輪の石塔でまつられています。忠勝公の霊屋横にある大きな五輪塔にまつられているのが、本多平八郎忠刻公とその子幸千代君の墓碑で、他には大谷三兵衛政明(政朝の伴)、宮本三木之助(忠刻の伴)、宮田角兵衛(三木之助の伴)、岩原牛之助(忠刻の伴)以上四名の切腹殉死者の墓碑がともにまつられている。
霊屋五棟はほぼ同一の構造形式である。江戸初期から中期にわたる廟建築として県下でも類例のない貴重な遺構である。
圓教寺は記録によると、天正六年(一五七八)秀吉の乱入までおよそ二万六千石あったが、秀吉に全てを没収され、後に五百石だけを施入された。江戸時代に八百三十三石となり、すでに鎌倉・室町時代の寺力がなかった。元和三年(一六一七)に姫路に入部してきた本多忠政は、元和八年(一六二二)摩尼殿前石橋・講堂・金堂の修復にかかり、代々の城主も圓教寺修復に尽力した。・・・

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左が徳川四天王の一人、本多忠勝の霊屋です。忠勝は上総大多喜藩主から伊勢桑名藩主に就いた方です。高野山・奥の院にも祀られています。よろしければ「本多忠勝墓所」をご覧ください。

真ん中が本多忠勝を初代とする本多家2代・本多忠政の霊屋です。父・忠勝の跡を継いで桑名藩主に就きますが、後に播磨姫路藩に移ります。本多忠政の五輪塔と忠政の正室で徳川家康の孫(家康の嫡男・信康の娘)熊姫の五輪塔が高野山奥の院にあります。よろしければ播磨姫路初代藩主・本多忠政墓所本多忠政の正室・熊姫(妙高院)の五輪塔をご覧ください。

忠政の嫡子・忠刻が若くして亡くなったため、2男の政朝が本多家3代となり播磨姫路藩主に就きます。右が政朝の霊屋です。政朝の兄・忠刻の正室は元・豊臣秀頼の正室だった千姫です。千姫は徳川家康の孫・2代将軍徳川秀忠の娘の千姫ですが、ここには忠刻の五輪塔はあるものの、千姫は祀られていないようです。しかし、高野山奥の院には立派な五輪塔が建てられています。

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政朝亡き後の跡継ぎは政長でしたが、まだ幼少と言うことで政朝の従兄弟・政勝が本多家4代として姫路藩主の座に就き、その後大和郡山藩へ移ります。政勝のあとは本多家5代として政長が継ぎ、二代大和郡山藩主の座に就くことになります。この霊屋は5代・政長のもの。本多家4代・本多政勝はここには祀られていないようです。高野山奥の院には彼の大きな五輪塔があります。よろしければ大和郡山・本多家五輪塔をご覧ください。要するに政長のリリーフであった4代・政勝は本多家の霊屋には入れてもらえなかったようです。本多家の庶流ということだからでしょうか。

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本多家6代目の本多忠国の霊屋です。忠国は水戸光圀の甥に当たる人で5代政長の養子になり、大和郡山藩主として本多家6代目を継ぎます。その後、福島藩に移りますが、再び姫路藩主としてこの地に戻ってきた方です。

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真ん中に見えているのが早世した2代・忠政の嫡子で千姫の夫である本多忠刻の五輪塔です。斜めからしか撮れなかったので地輪に刻まれている文字は良く分かりませんが、圓泰院殿・・・・雄大居士の文字が読み取れるように思います。高野山に忠刻の五輪塔はあったかしら・・・。忠刻の五輪塔の向こう側、灯籠の丁度後ろ側に忠刻と千姫の間に出来るも幼くして亡くなった幸千代の五輪塔があります。

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