50周年の紀南プチ旅行 その6 岩代の結松記念碑 (和歌山県みなべ町)

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帰りは高速道路を通らず国道42号線を帰ってきました。途中、みなべ町藤代坂にある有間皇子の結松記念碑です。有間皇子は孝徳天皇の息子。乙巳の変のおり、首謀者・中大兄王とその母・皇極天皇に祭り上げられて天皇位に就いた孝徳天皇は難波京へ遷都します。大和の混乱が収まった頃、孝徳天皇の意に反して中大兄らは強引に大和へ都を移します。残された孝徳天皇は憤死されたとか。大和に戻った皇極天皇は重祚して斉明天皇として再び天皇位につきます。有間皇子は中の大兄王の従兄弟、皇極(斉明)天皇の甥に当たります。身の危険を感じた有間皇子は狂気を装って斉明母子からの難を避けようとしますが、蘇我赤兄の奸計により、謀反の疑いをかけられ、牟婁の湯(白浜温泉)へ出かけていた斉明母子の元に護送されます。その途中、ここの生えていた松を見て詠んだ歌が「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸きくあらば またかへりみむ」 なんと悲壮な覚悟で読んだ歌でしょう。有間皇子は19歳。庇護する人もなく、父の敵と言える人達の元へ護送されていく気持ちはいかばかりだったことでしょう。弁明するも許されることなく、再びこの地を通って北へ送られていく有間皇子の胸中、来る時よりも悲壮なものだったことでしょう。そして今の海南市の藤白坂で絞首刑に処せられます。権力の座にある人が、後々自分にとって邪魔な存在になるような人に対してとる行動は昔も今も変わらないように思います。俗物が権力を握った時の恐ろしさ・・・。

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藤白坂で絞首刑になった有間皇子を祀る碑です。右が有間皇子の墓、左の大きい碑は、有間皇子が詠んだ歌です。「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」 碑には万葉仮名で刻まれています。多分 「家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉乎盛」だと思います。ところで、この写真は今回の旅の帰りに撮ったものではなく、ブログを始める5年前の2005年2月に撮ったものです。つい最近行ったように思っていたのですが、もう19年近くも前になるのですね。本当に10年や20年なんて、あっという間に過ぎていくように思います。

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