高野山・奥の院の芭蕉句碑の裏側(江戸期の案内図に見る高野山)

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この写真は2013年12月11日のブログ「芭蕉句碑(高野山奥の院)」の再掲です。何故載せたかというと、例の紀伊名所圖會を見ていて面白いことを見つけたからです。それはこの碑の裏側に「碑陰銘」があるということ。皆さん、「これが芭蕉の句碑か。立派なもんだね」と感心して通り過ぎていきますが、裏側に回って見る人には今まで出会ったことがありません。今回、半信半疑で句碑の後ろ側に回ってみました。

芭蕉句碑裏面

すると、何と「碑陰銘」が刻まれているではありませんか。私にとって、これは新しい発見。感動しました。表側に比べて裏側は字も小さくて読みにくいのですが、写真をクリックしていただくと少しは見やすくなるかと思います。内容は紀伊名所圖會に出ているものを転載させていただきました。

ほろほろと。鳴くは山田の。雉子のこゑ。父にやあらむ。母にやと。おもいしたへる。いにしへの。良辯のかの。ふるうたに。かよふ心の。十あまり。なゝつの文字を。石に今。きざみてこゝに。たつかゆみ。紀の高野なる。法の月。雪にさらして。すゑの世も。くちぬためしを。この國に。この道したふ。泝風てふ。人のまことを。かきぞとゞむる。雪中菴蓼太

これまで芭蕉の「父母のしきりにこいし雉子の声」と刻まれている句を見ると、何故か「ほろほろと 鳴く山鳥の声聞けば 父かとぞ思い 母かとぞ思う 思う」という成田為三作曲の歌が思い出されてなりませんでしたが、良弁の古歌からとったものだったのですね。

でも雉子と山鳥など、少し違っているので、念のためと言っては何ですが成田為三のその歌も調べてみました。すると何とその歌は玉葉集に行基の歌として載っていることがわかりました。「山鳥のなくを聞きて 行基菩薩 山鳥のほろほろとなく声きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ 玉葉集(2627)」

良弁も行基も奈良の大仏造営に関わった同時代の人物。その二人がよく似た歌を残している・・・。そして芭蕉はその良弁の歌をもとにこの句を残したのでしょうか。そして私は成田為三の歌を懐かしく思い出して口ずさんでいる・・・。興味は尽きませんが、門外漢の私に考えることの出来るのはここらあたりまでです。

なお、雪中菴蓼太は芭蕉を慕った江戸中期の俳人、大島蓼太のことです。その蓼太が「この道したふ 泝風てふ 人のまことを かきぞとゞむる」と書いているのですから「泝風」という人は相当芭蕉に傾倒していた俳人かと思われます。

興味をお持ちになりましたら是非一度「芭蕉句碑」の裏側をご覧になってください。

ますます紀伊名所圖會にはまってしまいそうな予感が・・・。

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